書評日記 第505冊
デミアン ヘルマン・ヘッセ
岩波文庫 ISBN4-00-324355-2

 「美少年の考察」というwebページから影響を受けて読む。
 ヘッセと言えば、たくさんの著作があるのだろうが、他は『車輪の下』しか知らない。
 
 ギナジウムという少年たちの花園は、現代の漫画や小説においては、一種の倒錯性を帯びさせる最適な場所、なのではあるが――萩尾望都の『トーマの心臓』がすぐに思い出される――、ヘッセが描いたニーチェの「超人」風の生き方と等しいものを含んでいるか、私にはわからない。
 だが、「美少年」という言葉が引きずるイメージは、稲垣足穂の『少年愛の美学』や長野まゆみの『テレビジョン・シティ』から踏襲され続け、また、『デミアン』で描かれるような、未大人ゆえの独立性への執着、と見ることができる。いわば、現存する大人の世界にみずからを合わせようとはせず、別の場所――とは言え、最後にデミアンは戦争に徴兵されるのだが――を求め続ける。ただし、現世とは異なる芸術の世界や堕落=アウトサイダーの世界に足を踏み入れることを良しとしない。ジンクレエルは、親元を離れて、暴力沙汰を起こし、音楽を聞き入り、最後に再びデミアンに再会することになるのだが、これはジンクレエルが少年であった頃の「カインの方が正しかった」というデミアンの説明に引き摺られるままに、また、カインの印を持ったために、辛くならざるを得なかった、という特殊性または社会の縁を強調する。
 美少年が美少年たりえるのは、一種の汚濁の社会である大人の世界から逸脱し、それに追随する学校にある日常生活を冷ややかに見つめた上での、霊魂的な違いを持つためだと思う。単純なアウトサイダーではない知的さ、そして、その知的さの持つ的確さを美少年は備える。デミアンもそうである。
 だが、決して普通の社会には受け入れ難い要素をデミアンは持ち、それを自覚している。そして、それはデミアンの母親・デヴィ夫人より受け継ぎ、ジンクレエルは、最後にデヴィ夫人に「ほんとうの母親」の姿を見る。
 
 はいたかの絵は、ル・グウィンの「ゲド」に通じるのか。卵の世界という暗示は、長野まゆみの『少年アリス』に通じるのか。孵化することは、ひとつの世界を壊して更なる世界に出ることを意味する。
 ヘッセの小説は重苦しいイメージを付きまとわせるのだが、『デミアン』は、もう一人の主人公であるデミアンを影にして、静かにしかし確実に辿り着くイメージは、非常に読後感が良い。

update: 1999/06/19
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