書評日記 第517冊
家畜人ヤプー 沼正三
幻冬舎アウトロー文庫

 『家畜人ヤプー』を知ったのは、石森章太郎――当時は石森章太郎!――が漫画化したものを大学生の頃である。何故に『家畜人ヤプー』のような悪書(良い悪書)を、モラルぞっこんの石森章太郎が漫画化にしたのか本当の理由はさだかではないが、サイボーグ009から始まる、奇形=サイボーグ=異端・異世界、という感覚がマッチしたのかもしれない。
 夢野久作の『ドグラ・マグラ』は精神的な泥沼を味合わせるのだが、『家畜人ヤプー』は衛生博覧会的な標識の羅列によって、物質的な泥沼状態を幻惑させる。

 『家畜人ヤプー』で創られる世界は、女権の世界であり、白人至上の世界であり、日本人蓄人の世界であり、ヤプー生体が蔓延する世界である。イースに住む白人貴族は――この話では貴族を中心にして語られる、平民は奴隷である黒人のちょっと上という階梯が付けられている――ヤプーにセッチンをしオシッコを命令しウンコを強要する。12体のヤプーが組み合わされた肉風呂に入り、肉椅子にすわり、肉便器に汚物を落とす。ヤプーの皮を剥いだ潜水服で泳ぐ。カッパや蓄人馬がいる。すべては、ヤプーであがなわれるすばらしい世界なのである。
 ちなみに動物は動物園で保護されている。ヤプー犬をペットにしたり、小人ヤプーで作ったオルゴールを聴く。ある星ではヤプーを育てて、年に一度刈り取りにくる。
 ヤプーは勤勉であり我慢強い。白い神である主人への思慕は、忠犬の比ではない。いや、イース人の言葉を解し、テレパスで心の動きを解するからこそ、かつての忠臣を演ずる、究極の無己性を発揮する。

 と、表面的に見れば現代日本や世界――むろん、当時の日本や世界という意味だが――の批判を行っているように見えるが、どちらかといえば、そんな世界の狭い話ではない。サーカスであり、『ラーオ博士のサーカス』のように、次々と展開されるモノ(ヤプー)たちは、文学的な比喩・隠喩を飛び越えたところにある読者の好奇心を直接揺さぶるものが『家畜人ヤプー』の魅力である。
 学術的に言えば、『鼻行類』のようなものかもしれない。
 ひょっとすれば、手塚治虫の『鳥人体系』にも似ているが、物語へ没頭できる姿勢は、『家畜人ヤプー』の方が上である。

 下世話に言えば、差別感情と糞尿嗜好症を極端に押し広げた作品かもしれないが、『O嬢』や『ソドム百二十日』ほどには、鬼才であると思う。

 特筆すべきは、サドの描くサディズムとは全く正反対のところに『家畜人ヤプー』はある。一種、ポーリーンやクララの行うヤプーへの仕打ちがサディスティックに描かれているように見えるが、実のところは、ヤプー=日本人=麟一郎からみたマゾッホが、読者=日本人=私に、最大の感情移入対象になっている。いわば、日本人のための快楽悪書と言える。最初の肉便器の詳細な説明に顔を顰めつつ、高橋源一郎の『アダルト』を思い出している自分の姿を顧みる。

 まあ、結局は好きなんでしょう、こういうものが。アンダーグラウンドの死体サイトとか奇形サイトとかは眺めないけれど、文字になったときにある想像の選択肢に惹かれるのかも。

update: 1999/08/13
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