書評日記 第520冊
ナイフ 重松清
新潮社 ISBN4-10-407502-7

 図書館で借りる。
 目次から、「ワニとハブとひょうたん池で」、「ナイフ」、「キャッチボール日和」、「エビスくん」、「ビタースィート・ホーム」。
 
 全体的なキーワードとして「いじめ」がある。朝の通勤途中に読んでいたのだが、「ワニとハブ―」を読み始めた頃は、うんざりしてしまった。いじめを小説のテーマに取り上げるとき作者は何を考えているのだろうか、という反発もあり、既に私にとって通り過ぎてしまった時代である中学・高校で起こるいじめという問題に対して、冷たい客観視しか私には残されていない、という諦めもあって、親身な怒りより先行して、小説虚構世界内にある特殊な行動のやりきれなさ――それなりにハッピーエンドではあるのだけれど――に私はうんざりしてしまう。
 いじめという問題が、多分に非人道的であり、閉鎖社会で起こる極端な階層意識と外部社会に対して極端な保護区であるために発生する、と決めるならば、当事者は逃亡すれば良い、という結論を私は持っている。事実、いじめを受けようといじめを受けまいと、一定の学区内に安住できかねる人は、退学なり登校拒否なり転校なりを強いられて――強いられてだと思う――いる。もちろん、それが子供社会・学校社会でありつつも、大人社会(現実の厳しい社会?)の一部であればこそ、何らかの「逃走」は「敗走」に繋がる。一種の平等主義幻想による生徒の平等化がいじめを促進していると思えなくもない。
 ただし、それらの原因がいずれにあるにせよ、当事者である子供(いじめっ子も含むべきなのか?)にとって、現状を維持するしかない状況に陥っていることへ対し、僅かな打開策または打開された現実が『ナイフ』の各小説の結末になる。
 
 しかし、手法として重松清の取った描き方はあまり誉められるものではない。いじめの当事者がこれを読みどのように感じるのか、と想像したとき、あまり助けにはならないのではないか、と思ってしまう。むろん、どこかうそ臭い理想主義を持ち出したハッピーエンドやまるっきり当事者を読者の対象としない救いの無い小説――「救い」があれば良いというわけではないが、何かと「救い」を読者は求めたがるし、評者も求めたがる――とは違って、真摯という言葉を使って現実を踏み外さないように注意深く書かれているには違いない。だが、石坂啓や干刈あがたの描く作品の方が、いじめという問題に対してより良い形で対処しているのではないか、と思ってしまう。
 そういう意味では、「エビスくん」あたりが私は気に入った。
 

update: 1999/08/15
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