書評日記 第523冊
卍(まんじ) 谷崎潤一郎
新潮文庫 ISBN4-10-100508-7

 京都弁の一人語りで一冊の小説が出来上がる。
 実際使われている京都弁よりも谷崎潤一郎の書く(語る)京都弁は綺麗すぎるらしいが、文字にした場合、このぐらいが丁度いいのかもしれない。話し言葉と書き言葉のちがいだと思う。
 
 ひと言で言えば「三角関係」である。女女と女男の三角関係は、極めて谷崎潤一郎らしいシチュエーションである。佐藤春夫との関係もあるから、一種自伝的な部分もあるだろう。抜け出さないというか、抜け出せないというか、蟻地獄的な状況を楽しむような、園子は、谷崎潤一郎の自己投影であることは間違いない。むろん、登場人物=作者ではないので、想像力を駆使した結果であるには違いないのだが、自虐的な現場に居合わせることによって、あれこれと考えることが好きな人物でなければ、この小説を描くことはできないし、楽しむこともできないだろう。

 全編、京都弁の話し言葉によって過不足なく状況を詳細に話す――それが一冊分にもなるのだから、一体、園子は幾時間話し続けたのか?――手法は、ふと思い付きはするものの、実行するのはなかなか難しい。小説化の束縛要素として、一人称であることと、話し手=園子から見た状況しか出し得ない、ということになるのだが、「卍」はそこまで厳しく束縛していない。どこか、実際に話すにはおかしい場所が真ん中らへんから出てくるのだが、読み手としてはそっちの方が不自然がないので、自然と読み進んでしまう。その変が奇妙な感じがして面白い。
 
 そう、円熟、脂の乗っている時期に書かれた作品と言える。解説で中村光夫が言う通り、谷崎潤一郎の求める「健全さ」は、一般社会では認められない健全さなのだが、彼の人生の中心にあり、彼を支えてきた「健全さ」は、こういう異常を真摯に描き取る眼の良さなのだと私は思う。

update: 1999/09/03
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