書評日記 第526冊
犠牲(サクリファイス) 柳田邦男
文春文庫 ISBN4-16-724015-7

 タルコフスキー作の「サクリファイス」を見たのは大学生の頃である。夜中に映画鑑賞会と称して友人宅に集まり、部屋を暗くしてテレビを眺めていた。未だ、能天気な恋愛コメディ漫画が一番好きだった――筒井康隆は読んでいたけど――頃ではあったが、非常に興味深かったことを覚えている。最後に家を燃やすのであるが、それが神への自己犠牲だとは当時わからなかった。難解だった、というよりも、タルコフスキーの映画を観るだけで精一杯のだろう。
 
 脳死と臓器移植は密接に関係している。心臓や腎臓は血が通わなくなれば直ちに壊死してしまう。親や兄弟の腎臓を生体間移植するように、腎機能の停止は人にとって正に致命的な病状となる。だから、これから消えてしまう死者よりも、生きて行く者を優先しようとして、「死」の線引きを引こうとする。
 たぶん、臓器を必要としていないのであれば脳死は問題にならない。脳死状態になり心臓が幾日か動いてだんだんと身体が冷えていく過程のどこであっても、死者は甦らない。むろん、生還する可能性もあり、出産をすることもでき、汗もかき、髪の毛や爪も伸びるわけだが、それは脳死状態という医学的基準を否定する根拠にはならない、と私は思う。
 脳死が問題になるのは、「犠牲(サクリファイス)」の最後で柳田邦男が書くように、死者自身ではなく、残された者に対するケアの時間が必要なためだ。死に逝く者は死んでしまえば戻っては来ない。形而上学的に霊魂を考えたとしても、死者自体が人権を称えることはない。残された者が死者を通してみる世界、死者の気持ちになる、遺志を受け継ぐ、といった死者という鏡(または影)を通した自分の気持ちの整理には一定の時間が必要なのだ。
 その時間は短いかもしれないし、長く続くかもしれない。残された者が一生抱えて行く重要な問題になるかもしれない。しかし、どちらにせよ、脳死判定を終えて、たかだか10分程度の別れの時間を持つだけで、長く続くであろう傷への準備が済むとは思われない。
 
 しかし、それでもなお、臓器移植が推進されるのは、第三者である者が生き長らえられるという利が大きいからだろう。金銭的にも高額にもかかわらず、なお臓器移植を希望するのは、極端に生命を大切にする教育――ひと一人の命は地球より重たいとか――のためかもしれないが、どこかで莫大な利益を生む経済的な理由があるからだろう。
 そんな邪推をしつつも、私はどちらかといえば、脳死を認める方だと思う。純粋に科学を信奉するからか。多分、「自己犠牲」にしか為し得ない出来事があるからだと思う。
 
 柳田邦男の息子である洋二郎の書いた小説が挿入されているが、私にはおもしろかった。うまいと思う。死に面したものしか書けないものかもしれない。北条民雄のようなものか。

update: 1999/09/30
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