書評日記 第527冊
ザ・マン・フー ピーター・ブルック
世田谷パブリックシアター

 原作はオリバー・サックスの『妻を帽子と間違えた男』。オリバー・サックスは『レナードの朝』の原作者。ピーター・ブルックの演劇は先に『ストリート・オブ・クロコダイル』を観た。
 
 『ザ・マン・フー』は芝居としては失敗しているかもしれない。パンフレットに書いてあるように「人間がもたらす脅威のドラマについての演劇的探求」としては、十分に探求しているように思える。十数人の精神病理の症状を四人の俳優が医者と患者とを入れ替わりながら進んで行く時間――さしたるストーリーはないので――は、オムニバスとも症例の列記とも取れる。ひょっとすれば精神障害者の悲しい現実と温かい過去を描くことで「お涙頂戴」に陥る可能性があるものの、この芝居は其処には至らない。『レナードの朝』が、映画的効果によって臨場感あふれる感動を演技者と一帯となることによって呼び起こすことに対し、『ザ・マン・フー』は一種の講義的側面を一番前に出しつつも、観ているときよりも観たあとの個々人の感想に深く根差すものがある、ように思える。
 その分、脳障害による症状の羅列は、目に見える不具とは違って、奇異な興味を引かない退屈さと隣り合わせになる。だから、チック患者による饒舌さ――これは『レナードの朝』における再び痙攣を始めるレナードによる映像効果と全く同じものを持っていた――と造語症の患者が作る言葉の連射が観客の笑いを一番誘ったのは無理からぬことなのだ。
 
 果たして、脳の不思議さの一端を示すための欠損としての脳障害なのか、隣人にもいるかもしれないという恐怖――と書いておく――なのか、それは狂人=犯罪者と同じ法則なのか。
 ただ、オリバー・サックス自身が右足の存在感を失い死人の足を抱える恐怖を味わったことを考えれば、彼が見る脳が司るあらゆる物事への認識の位置は、ジェフリー・アーチャーが『ホテル』で描く「足が不具にも関わらず犯罪者である」という恐怖とは全く正反対の位置にあることは確かだろう。

 あと、俳優の演技がほんものの患者と見紛うばかりの名演技である、ということは、何を示すのだろうか。誇張ではない写実的な現実を写し取る「事実」を示しているのだろうか。

update: 1999/10/19
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