書評日記 第542冊
海の上のピアニスト ジュゼッベ・トルナーレ
アスミック・エース エンタテイメント

 感動を呼ぶ映画(それが商業的であれハリウッド的であれ)はよくできた小説と同じように寓話性が求められる。1900年に生まれ――正確には一等船室のピアノの上に捨てられて――船と共に沈んでいくまで、一生を船の中で過ごした不遇/人知れぬ天才ピアニストの存在と生涯は、自己の意思において船から一歩も外に出ることが無かった閉鎖的な人生を、現実の世界=ビルの立ち並ぶニューヨークから切り離された寓話の領域に押し込めることに十分に成功している。逆に言えば、井の中の蛙のように外の世界を知らず(しかし、いったい「外の世界」がなにを示すのか、映画の中で主人公から語られる「無限の鍵盤」を示すのか…は、正確に示されず、同時に正確に示すことを拒んでいるのだが)というように、移民船の中で大勢のひとの通り道に佇む高貴なピエロ役を担っているにすぎない、夢の中のひと、とも言える。つまりは、トランペッタが現実の世界から夢の世界=船上の生活に飛び込み、再び現実の世界へと戻り、なにがしかの苦労&失敗を経て、結婚もせず(これはトランペッタ自身がピアニスト=1900に陸の上に住むように勧めるキーワードになっている)子供に囲まれることも無く、トランペットを生活のために楽器屋に売りに来る現実という、寓話と「ありきたりな」現実との対比を示している。また、ピアニストが船を出ないのは、現実に出る勇気がないのではなくて、人魚姫が陸に上がるには声を失わなければならなかったように、天才ピアニストは、JAZZという土俵で勝負することができなかった(もちろん、JAZZという土俵で勝負する必要はなかった)彼の社会との親和性の限界を表している。
 え〜と、分析を別にすれば、「海の上のピアニスト」は非常によくできた映画である。監督トルナーレ(「ニューシネマパラダイス」や「みんな元気」)の趣味に沿って作られた秀作だと思う。ところどころに出てくるアメリカ的なジョークは、妙な派手さで強弱の旋律を奏でるハリウッド映画とは違った自然な効果(寓話の世界に引き込まれ過ぎない効果)を出しているし、原作には無かったという少女を見ながらピアノを弾くシーンは、「ニューシネマ・パラダイス」で青年が柵越しに娘相手にフイルムを廻すシーンを彷彿とさせる。映画は画(え)の連続ものであるから、映像の色と形を重視するのは当然(トルナーレの場合は音楽も付け加えるべき)のことなのだろうが、絵画的なショット単位の芸術性ではなくて、非常に映画らしい時間の概念を取り入れた空間の広がりに魅力がある。
 これは原作「ノヴェチェント」(アレッサンドロ・バロッコ)が一人芝居の脚本として書かれているためかもしれないが、最後に船底でピアニストが物語るシーンは映画では余分な重複が感じられた。特に、少女に纏わるエピソードは原作には無かったものだったため(トルナーレの趣味的な部分が災いしたのかも)街に出ようとするピアニストの内心と、ラストで語る言葉とに多少の齟齬が出ていたような気がする。あくまで現実と寓話の境界を越えることができないジレンマを主軸に置き、そのまま散っていったほうが「寓話」らしいのではないだろうか。もちろん、「少女」の存在が映画としての〈感動〉を呼び起こすものだとしても。

update: 2000/01/23
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