書評日記 第543冊
ブリキの太鼓 ギュンター・グラス
集英社文庫 ISBN4-08-760037-8

 1999年ノーベル文学賞受賞作家。
 
 去年の12月に読み始めてやっと読み終わった。読み終えるまでに1ヶ月半かかったのは「ブリキの太鼓」が長編(三巻組)であったのもそうだし、途中に他の本を読んでいたのもそうなのだが、第一の理由は「ブリキの太鼓」は早く読めない小説である、ことだろう。グラス自身が言うように「ブリキの太鼓」は散文形式で書かれている。筋があちこちに飛ぶ、またはいろいろな回想が挟まれるのは、則るべき小説の筋が無い(まったく無いとは言わないまでも意識して作られた「物語性」を持たない)ためであり、計画的なエピソードではない挿話(それが終着駅的にラストに繋がっているいる道筋だとしても)を書き連ねることによって、「散文」は形作られている。このために「ぼくは」ないし「オスカルは」という主語で語られる主人公・オスカルの言葉・行為は、ひとつひとつ重大な意味を持ちひとつの落丁も無しに読者に伝わらなければ〈意味〉を為さない危うさそして微妙さを含んでいるような気が私はした。そうして、私=読者はひとつの行を読み飛ばすことなく頭の中で音読を続けなくてはならなかった。
 
 映画の「ブリキの太鼓」は小説の「ブリキの太鼓」の第二巻までを忠実に再現している。映画の終端が、オスカルがマリーアと一緒に汽車に乗り祖母と別れるシーンで終わり、三才のオスカルが成長することを決心するところであるのに対し、小説の方は当然のことながら(?)最後まで書かれていて、いびつに成長したオスカルがベブラと再会し、殺人犯として捕らえられるまでを描いている。
 実はラストでオスカルが自白する「みなを死に追いやった」という科白は「ブリキの太鼓」という作品の結論を語ってはいない。私にはひとつの作品の単なる乾いた結末を示しただけのように思える。実際、オスカルが母親や本当の父親を死に追いやった、ひそかに恋する看護婦を死により失ってしまった(これはオスカルの責任ではないにせよ)ことが、三才にして大人になることを拒否し、十八才(だと思うのだが)にして再び成長することを決心し、三十才にしてなんらかの壁を乗り越える道筋は、「ブリキの太鼓」のラストで示されるオスカルの言葉とは全く別もののような気がする。そう、つまりは、ひと言では言い表せない時間と空間と経緯とがあり、それは同等の時間をかけることによってしか示すことのできない微妙さを持っており、それは本人ですら全体を一時に捉えることはできないことを示している。主人公であるオスカルの最後に気がついた事柄は、やはり全体の一部分でしかなく、丁寧に描かれたオスカルの三十年間は、事項の羅列ではなく、ほんものの人生が後ろへ後ろへと積み上げられ関連付けられるように、小説内でいくつかの回想が自然に描かれるほど、リアルにそして人の心の動きに忠実に書かれていると思う。

update: 2000/01/24
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