書評日記 第558冊
バイバイ 鷺沢萌
角川文庫 ISBN4-04-873022-3

 約束通り二冊目を読む。
 この作家の作品を手に取る時に躊躇していしまうのは作品に溺れることを恐れるからだと思う。同じように溺れるにしても現実世界とつながった形で某かへの怒りと公憤を噴出させて没頭することは構わないのだが、微妙にかつ典型的とも云える俗物的なトリックすれすれの感情を見せられると命綱無しで潜っていく海底のような不安を感じる。
 江國香織のように奇抜ではない。だが、北山薫のように──彼は男性だが──考察尽くした結果を書いている訳でもない。しかし、どこか計算され尽くされたストーリー展開は九時台の恋愛ドラマに似て非なるものである。
 もちろん、九時台の恋愛ドラマのすべてが視聴率に媚びた視聴者の望む結末へと収束していく飽きたらなさを演出しているわけではないのだが、トレンディドラマと云われて久しい俳優女優に大きく因る映像作品に対して、読者の多々あるイメージをひとまとめにして巷にはいないものの巷にいそうな人物像を作り上げていく作品は、一日で読み終えるに易しい軽さを持ち得ていた。
 一方で、中上健次の「地の果て 至上の時」に四苦八苦していることを思えば、続けて原田宗典の「スメル男」を読み終えるスピードと同じくフィクション性が高い、ということなのだろう。
 これは行間から漂ってくる記号の匂いをかぎ分けなくて済むという手軽さでもある。しかし、原田宗典の本が「十九、二十」の延長として安心して──対してエッセーを避けているのだが──手に取れるのに対し、鷺沢萌の本を手に取るにはとあるシチュエーションが自分に必要になる。読者としての自分が安定しなければ手に取ることのできない危うさを彼女の作品は内包している。そういう意味ではフィクション性は低いとも考えられる。
 
 結婚の約束してつきあっている男がいた。しかし問題なのは彼には同様につきあっているほかに2人の女性がいた。
 二股とも三股とも取れる状況なのだが、人を傷つけないように嘘を付き、人に傷つかないように嘘をついて過ごしている男に対して、いささかなりとも同情を寄せるならば──作品中「育ち」がキーになっているのだがちょっと泥臭い──そのような結果になるであろう、という回避不可能な破綻から物語は始まりなし崩しに瓦解した後に結末をみる。
 不倫の肯定とか倫理観だとか責任だとかいう絶対的な基準のない複数の価値観が其処にあり翻弄される。
 そういう小説である。

update: 2000/06/21
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