書評日記 第559冊
もとの黙阿弥 井上ひさし
文春文庫 ISBN4-16-711114-1

 別件で小林恭二著「悪への招待状」(集英社新書)を中心に書いたので、こちらは「もとの黙阿弥」を中心に書こう。
 
 中に入っている「悪党と幽霊」を読んで知ったのだが、井上ひさしは黙阿弥と圓朝の現代語訳を引き受けていたそうだ。七五調の言い回しと落語調のくだ巻きが其処から出ているのであらばなんとなく納得がいく……今更だが。だから、という訳でもないだろうが、「吉里吉里人」以来思うのは彼の文体が何かに囚われているような気がしてならない。それが七五調なのか落語調なのか彼自身の持つ文体なのかは判らないのだが日本語の文章というものに対して「守る」ことで何かを創造して行こうとしている無理がみえなくもない。当然、片方に筒井康隆の演ずる日本語の崩壊から見えてくるものに魅せられる私だからそう思うのかもしれないが、脚本として書かれた「もとの黙阿弥」を読んでいると井上節と呼ばれる節回しに飽くこともないではない。……もっとも、なにであっても飽きは来るのだが。
 
 が、脚本と小説は全く別のものであるし、小説がホラー映画を模倣(「神の変容」のように)したり、小説が演劇に同意していったり(柳美里のように)するわけなのだが、純粋に(?)小説だけを書く(例えば村上龍や村上春樹のように?)人達とは違って、片方に音を中心とした芝居があって片方にタイポグラフィへと派生していく小説の世界があれば──漫画から音を引き出すというでんでは「神童」があったっけ──、そこに複合されることによる強みが出てくる。まあ、小説から政治へと変質していくのがポリシーや思想の体現として主流ではあるのだが、私にはかえって狭さを感じなくもない。原田宗典のようにエッセーに邁進するのも今ひとつ(高橋源一郎は贔屓なので置いておく)かと。むろん、掛け合わせだけに奇異を求めるわけではないのだが、何らかの底流があればこそ生まれてくる特有のリズムは小気味良さを作り出すために必須条件ではある。だから、椎名節もそれなりに面白い(あまり読まないけど)し井上節の五七調あるいは芝居台詞も十分楽しめる。しかし、柄谷公人が云うように「一定年齢が過ぎてから司馬遼太郎の小説が読めなくなった」と同様に読者本人の成長と作者の成長(?)との喰い違いが多少なりとも飽きを生み出す原因ともなっている。とすれば、さて、どうすればよいのか、というのもなかなか難しい。
 
 一方で、サルトルの「文学とは何か」を買い込み(まだ未読)、吉本隆明の「共同幻想論」の文庫版を買い込(まだ未読、しかもハードカバーの方も買ったが未読!)んだのは、組み合わせの妙で楽しもうとしているからなのだが、同時に出力層の複雑さだけでは楽しめない自分を発見したからだろう。二重二重に絡み合い最後に大団円となる芝居「もとの黙阿弥」も筒井康隆著「邪眼鳥」も作者自身の構成力そのものに感心はするものの得心する訳ではない。尤も、こんな自分に同調する者は少ないと理解しつつもカフカを引き合いに出しては安心する。
 
 にしても、歌舞伎、狂言、落語あたりを体系的に進めておくのも悪くはないかな。狂言は穴場なのかも。

update: 2000/06/28
copyleft by marenijr