書評日記 第575冊
既読者 ベルンハルト・シュリンク
新潮社 ISBN4-10-590018-8

 お客さんにメールで対応する。ちょっと以前ならば電話で対応していたところだが最近はちょっとしたことでもメールで対応する。「こんにちは、お世話になっております」で始まって「以上、よろしくお願いいたします」で締める。いつもの定型文なのだから単語登録するなりメールの自動挿入機能を使えば良さそうなものだがなんとなくしない。メーリングリストで、「お疲れさまです」で始まる文章を多く見掛け、「乱文、乱筆失礼致します」で終わる文章を多く見掛ける。その人の文は常にそれで始まりそれで終わる。過剰包装のような華美な包装のような包装のための包装のような気がしなくもない。「こん○○は」という始まるも多く見掛ける。確かに夜中に見る場合もあるから「おはようございます」では可笑しいかもしれないが何か違う。英語のメールだと Hi, で始まるものが多いからそれと同じだと云えばそうなのだろう。が、業務も私用もメーリングリストも同じようにくるまれてしまったメールの中身は情報以上でも情報以下でもないものに見える。使い分けの労を惜しむのか、とも思う。
 と考えていると気軽なメールは書けなくなる。手紙と同じと思えば手紙風に言葉を選びたくなる。すると、電話を掛ければ良い相手にもメールで済ませてしまう自分が居る。その閾の低さに戸惑うことがある、たびたび。
 
 「既読者」は数回に分けて読んだ。第一章の少年と若くはない女性との関係は長野まゆみの描く「上海少年」を思わせる平凡なものであった。しかし、過去にガス室の看守という職を持っていたハンナとの関係が少年にとっていや人にとってどのような関わり合いを持たなければならないのか/持ってしまうのかという重要な伏線かつ前提条件となっていれば、全体の三分の一を占める理由は十分にあると思う。
 ハンナと〈ぼく〉の関係は実に個人的な関係である。かつてハンナがナチのガス室の看守であり虐殺行為に加わっていたとしてもハンナと〈ぼく〉との関係とハンナと社会との関係とは交わりを持つことはない。しかし、過去を持ち、過去を暴かれ、これによって裁判で罪を問われ、戦争時代において事実を遡り、現在の裁判制度によって過去を裁かれるという時間軸上の裁きは、〈ぼく〉が大学生になりゼミの研究対象として選んだ過去への問い掛けに対して十分なストーリー的な意図が含まれている。しかし、ストーリー上とはいえ、なにがしかの考察・個人的な態度・何らかの意志決定が目の前の社会に対して行われる立場に立たされた時、どれだけ真剣に悩むことができるのか、ということに自然に読者を導く。個人的な関係は何も他人としての性関係だけに限らない。父であったり母であったり兄弟であったり親戚であったり、しても良い。しかし決定的に逃れることの出来ない血縁関係――当然、血縁関係ですら逃れることが出来ることは最近の事件や分かるのだが――よりも、知り合い以上であるも血縁以下である一番遠くて近い男女関係の間で〈ぼく〉は考え続けるのである。逆に云えば、血縁関係の場合逃れられないからこそ庇うあるいは全面的に許すしかない袋小路とこの先すれ違うことが無いことによって解答を見つける必要のない他人との関係との中間にあり、どちらにでも揺れることができる場合によっては愛憎半ばの混沌と古い想い出としての忘却を選択できる場において、人は歴史的な事実に対してどのような関係を持つことができるのか、という実践が「既読者」にはある。
 帯にある養老孟司の「だかが書かなければならなかった小説」というのは全面的に賛成はしかねるのだが、このような踏み込み方をした人(あるいは作家)は極めて珍しい、と思う。また、戦争が遠くの過去になった今(としておく)イメージとしての戦争に対するアプローチを参加した事実もなく決定的に拒否した事実もなく、しかし実際に起こってしまった出来事に対してどのような態度を取るべきなのか、解決を考え続ける――この継続に意味があるのだが――べきなのか、をきちんと実践した小説のように思う。

update: 2000/07/26
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