書評日記 第585冊
本の運命 井上ひさし
文春文庫 ISBN4-16-711120-9

 人はどれだけ気分良く生きることができるのか。生きて良いのか。多少の憤懣もあって Linux のインストールに没頭していたのだが、気が晴れない。自分の能力の限界やら個人の出来ることの上限やらを考えてパッケージのインストール&カーネルの再構築の手順だけを踏んでみる。そして、焼肉を食べて帰ったのち暑い眠れない夜におもむろに起き出して小説の続きを書く。
 随分中断していたと思ったら前回の日付は五月であった。プロットと十枚近くのものが二つあってこれを読み返す。夜中だからなのか、意外と面白く続きが読みたくなる。自分で云ってりゃ世話はない。じゃあということでプロットからひとつ拾ってきて書き始める。でだしは幾度と無く通勤途中の徒歩の間に反芻していたのだがうまくいかない。何度か書いては消して諦めて一文を吐き出し無理やり進める。後は自分の読みたい形で書き続ければ良い。内部にどろどろ溜まっている毒を連ねて行く。と、書いているうちにスピードが鈍る。アクセルを踏み込み前へ進む。また速度が落ちる。再び拍車を掛ける。幾度か繰り返した後に思想が出てくる。書いているときはノっているものの後で読むと面白くもなんともない若気の至りチンカスのような思想が幾行か続いてしまう。ここで私は中断する。
 こんな形でぐったりとして眠りに就く。全力疾走した後の心地良さは無く、ただ疲労している。次の朝は最悪の気分で目覚める。が、胃痛はしない。現実と幻想が混沌となって、小説を書くという紛れも無い現実が夢の中へと落ちる。その嫌さ加減が好きで再びキーボードに向かう。
 
 エッセイは避けて通っている。小説家の作品が小説であるならばエッセーはかの人の思想を凝縮したものではない。かの人が創り出した小宇宙ではなく――「小宇宙」という語はこの「本の運命」から引用――現実に媚びたあるいは現実と妥協した産業的な生産物に過ぎないからだ。だからエッセイをあまり読まない。
 が、あまりということは時々読む。個人に拠る。特に作品群を読み終わって本人に興味がでたら拾ってみる。私にとって井上ひさし個人への興味は最後発組なのだが、十三万冊の蔵書といいそれを元にして造られた遅筆堂文庫といい戯曲といい芝居といい筒井康隆といい、程よく真似してみたい気分になりつつある。尤も、あらゆる作家をあらゆる形で自分の中に取り込もうとする貪欲かつ無謀な魂胆で本屋にある新刊本を取る私であるから、井上ひさしの自身の持つバックグラウンドの造り方に一番の興味が惹かれる。
 だが、意外と思うだろうが井上ひさしは余り多くを語らない。生の言葉のままで講演してしまうと芝居にかかる圧力が失せてしまうのを恐れるのか「本の運命」で書かれているのは、表面的な諮詢に過ぎない。ただし、それらの諮詢だけで十分のような気がする。
 古本屋巡り、本に赤鉛筆、まめな抜書き、学生時代に学校の本を売り飛ばして映画に行ったこと、闇米を担いで東京に出てきたこと、「デビット・コッパフィールド」、推理小説、少年の頃に読んだ文学全集のこと、あらゆる場所で自分と反対の姿が其処にあるのは、何故?う〜む。
「華岡青洲の妾」は読んでみたいなあ。

update: 2000/08/29
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