書評日記 第589冊
コンセント 田口アンディ
幻冬舎 ISBNISDN4-7728-965-8

 「サザン床屋」脱稿、というかホームページにアップする(予定)。久し振りに短篇を書いた。一晩で十五枚書き上げその後ちびちびと推敲をする。助詞を直し、掛かり結びを外す。饒舌気味の部分は残して、表面的には表面的には日本語の体裁を整える。が、内実はイメージのみで突っ走る。
 ……はずなのだが、前半はまだいいとしても、後半に力の抜けが激しい。学術的なジャーゴンはここでは似合わないので入れず社会現象のピックアップにとどめる。が、なんとなく薄さを感じる。その分脱力具合が激しく退屈さを感じざるを得ない。執拗さというかサザンオールスターズのねちっこさというか、そいうノリを転記したいと思ったのだが、いまひとつ。
 
 WorkPad を持ち出して校正をした。いつでも小説を書くことが出来る、推敲することが出来る、手直しが出来る、というのは第一に時間が欲しい時に便利である。たしかに執筆スタイルというものが変わる。大学の頃四六時中漫画のストーリーを練っていて結局煮詰まって描けずに終わったことほとんどだが、文章の場合、瞬発力よりも持続力がものを云うような気がする。瞬発に見せかけて内実練られた言葉の配置、を目標にしよう。
 
 田口アンディの本は先々月に知り、先月に買って、今月読んだ。「アメリカの夜」と同時に買ったものの似たようなジャンルを危惧して読む時期を離した。精神医学、シャーマニズム、がキーワードになる。情欲的であることと社会の淵に住まうことは離反しない。単なる精神異常(風)から自発的にシャーマンへと移行していく主人公は、傍目に見れば正常から異常へと推移していくのだが、シャーマンにとっては俗世からの脱離であり真の正常へと向かうことになる。
 果たして主人公が持つコンセントとプラグのイメージがストーリー上では劇的な逆転を遂げるのだが、あまり「劇的」には書かれていない。書かれていないというよりも、コンセントとプラグの関係を書いて/進めているうちに、読者の私にとってストーリーよりも早く正しい位置に直されてしまったからだと思う。
 プラグをコンセントに差し込み、自分の動作を制御する姿は、「レナードの朝」にあるモノに意識を託す患者を思わせる。「コンセント」の中では、心理学に対する言及は表面的な神経症と分裂症(シャーマンへの傾倒がが分裂症と診断される)の考察に留まる。このあたりは精神科医の男がプラグの役目を負っているために別の面から根拠ある追求をする者が物語上から消えてしまったためと思われる。
 だが、ベースとしてライアル・ワトソン著「白い魔術師」、荒俣宏著「シム・フースイ Ver.1.0」、ユングのシンボルに対する考察、がある私にとって、シャーマニズムに対するヴァリエーションがいまひとつ典型的かな、という感じがしないでもない。セクシャルでありつづける巫女にとっは「新しいシャーマン」の姿は結末のようではなく寧ろ古いタイプではないか、と思わせる。ひょっとしたら、田口アンディが「新しいシャーマン」の姿を思いつかなかったためか、と余計なことを考えてしまう。
 しかし、ひとつの物語として、たとえば櫛田節子の書く「神鳥」、繭の話、に比べるとアクティブに楽しい。ひとを描かない、という戦力でいく瀬名秀明の方面でいくか、より物語に近い形で小野不由美のようにいくか、という感じなのだろうか。情報だけではない、読んでいるときの活気が「コンセント」にはある。

update: 2000/09/13
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