書評日記 第590冊
二人袴、千切木 野村万作・萬斎
横浜能楽堂

 横浜能楽堂は東急東横線の終点・桜田町で降り音楽通りを過ぎて坂を登り切ったところにある。横浜音楽堂の裏手にあるどん詰まりの建屋の中には檜の屋根(と思う)の能楽堂が納まっている。
 前説で野村万作が話したように横浜能楽堂には威圧感がない。戦中の空襲の中で二つだけ残ったうちのひとつがここである。歌舞伎が小金持ちの道楽であり落語や狂言が庶民の娯楽であった頃、四方の四本の柱から見えてくる舞台の内側は観劇用にあつらえた異世界の空間ではなくて、もっと身近に笑いを捉えることが出来る場として成り立っていたのであろう。
 
 「猿に始まり狐に終わる」という科白は、野村狂言の伝統にのみあてはまり、関西の狂言では違うそうだ。歌舞伎役者の息子たちと同様、狂言の世界にも子役がいる。猿回しの猿に扮し舞台の scene stealer となる。子供の動きの可愛さに観客が喜ぶ。そんな風に舞台へ一歩を踏み出し、後は二五〇の演目が待つ世界へと飛び込む。
 「釣狐」は狂言役者でも一生に一回やるかやらないかという演目なのだが、野村万作はこの「釣狐」を幾度となく演ずる。以前NHKで番組(や)っていたのだが、縫いぐるみを来て立ちまわる様は、追求するに止むに止まれぬ魅力があると思われる。ひとつの演目に拘りあちらこちらと視点を変えながら演技を改善していく。時には解釈を変える。そこは落語の世界にも同様で得意とする噺には自然と愛着と向上心が添っていくと思われる。今は亡き桂枝雀を思わせる。
 そこに発展性と伝統との折り合いがある。伝統芸能である狂言という芸術分野を更に進化させるべきか古くからの伝統を頑固に守って行くかの違いがある。ただ朽ちるよりは目の前に現れる狂言のほうが観客としての私は喜ばしい。
 
 「二人袴」はひとつの袴をやり取りして舅に挨拶する父と子の話である。気の弱い花婿が長袴を持って親に付いていて貰う。過保護具合が現代風でもあり智恵のある年長者の父が息子の失言をフォローする様子は礼儀を持つ世代の親と現代風な子との対照が見えてきて面白い。両方一遍に舅の目の前に出るために袴を二つに裂く。三人で踊りを舞うと太郎冠者が二人の可笑しさに気付く。父と子は恥ずかしさを連ねて退場し、舅は引きとめるようにそれを追う。太郎冠者が笑いながら追う。
 確か落語にも同様な噺があったと思う。狂言の演目と落語は重なるところが多い。というか、能楽堂で行われる狂言の脚本を庶民の場所に持ってきたのが落語や講談であるから、重なりが多くても不思議ではない。
 欄干のところで揉める父と子の姿。舞台の上と欄干で同時にがなられる会話。酒を呑むシーン。舞いを舞うシーン。と、かなりオーソドックスな作りがしてある。花婿を演ずる野村萬斎のコミカルな動作――長袴を父親に履かせて貰う、長袴を履いているので歩きづらく、曲がるときには腕を振って勢いをつける――は漫才風なアレンジなのか昔からそういう振り付けだったのか興味あるところだが、いわゆる舞台の上の動きによる笑いがふんだんに漏り込まれている演目である。
 
 「千切木」は、句会に仲間はずれにされた太郎が無理やり登場し、足蹴にされる。それを妻に見つかり、妻に叱咤激励されて各家を廻って仕返しを試みる。だが、みなが留守であり、それをいいことに気弱な太郎は色々怒鳴り散らして去る。という嬶天下な話である。
 立衆がたくさん出てくると、舞台が狭くみえてくる。リングの上にプロレスラーがいるバトルロイヤル状態になり、将棋の駒のようにそれぞれの役者の立ち位置が決まっている。用のない時は座って正面を向いている。舞台脇に下がるのではなくて、そのまま居続けるという形は、観客が彼をいないものとして見るという了解を得ているためである。バルトによれば黒子の存在が日本の象徴性を表しているが狂言でそれがもっと押し進められている。いや、狂言の方が古い(室町時代からある)ので、もともと演劇は舞台の上で終始一巻行われていた、という根本原理を示している。もっとも、西洋演劇も同様であり、場面転換は後世に発生したもので、元々はひとつの舞台ですべてのストーリーが進む。だから、根本は同じところにある。
 その不思議さと暗黙の了解をして狂言を見れば、形を好む日本の演劇性が見えてくる。芝居小屋の芝居が、どうあっても芝居であることを意識させられつつも芝居特有の科白廻しによって面白さを倍増させている。現実とは全く正反対な芝居の世界があってこそ、現実を楽しめる、という混沌さが日本の芝居にはある。
 その潮流として「千切木」は、一種ぷつりと切れてしまうオチのなさ、締りの無さがあるのだが、それは「二人袴」のように明確なオチがあり拍手喝采によって舞台と現実と切り離す明示的な区切りを持つのに対して、舞台の世界から連続的に現実へと戻って来る、後ろから押し出されるような奇妙な気分を「千切木」は味合わせてくれる。
 果たして、それは意図的に仕組まれたものなのか、は分からないのだが、狂言をいくつか見ているとこのような終わり方をする演目が意外と多いことに気付く。拍手をするタイミングを失うというか、区切りのない居心地の悪さを覚えるものが半分ぐらいある。
 だが、どちらかと云えば、その現実と舞台との区切りのない混沌とした繋がりこそが狂言の面白み(能もそうだと思う)ではないかと思う。ある種、区切りを付けるのは明日の現実と舞台の幻想とを切り離す必要のある庶民のためで、有閑階級であれば浮遊したままの気持ちを持続して反芻するために区切りは必要ないのではないか、と思われる。
 
 

update: 2000/09/14
copyleft by marenijr