書評日記 第591冊
ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ
ヘラルド

 Idea Flagment を使ってアイデアを派生させる。WorkPad のメモ帳を使って書き散らしたり、自分にメールを送ってみたり、蓑系ファイルに書き残してみたりしたが、スピードの点で云えば Idea Flagment が一番のような気がする。常に立ち上げておいて一言断片を書き込む。今日は「カニバ・カーニバル」のアイデアだけを書き付けていたが、そのうちもっと別なところに飛び火するかもしれない。
 水もののアイデアを残しておくのは貧乏性かもしれないが、その十分の一でも用立てることが出来れば充分に効果的だろう。携帯用の WorkPad との連携、またまとまったアイデアとしての蓑系やメール機能とも連携させてみたい。どうするべぇか。
 
「ほんとうの」という形容詞が意味するのは、デュ・プレのスキャンダラスな面か、あるいは末梢神経症(正確な病名は忘れてしまった)を患いチェロを弾けなくなり42歳で死に至ってしまったデュ・プレの姿を示すものなのか。
 チェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレには、姉ヒラリーがいる。五才の頃チェロをはじめたばかりの頃は姉ヒラリーの方が才能を認められている。そのうち姉妹で音楽会で優勝するようになる。妹のジャクリーヌは天才的なチェロ奏者として海外演奏旅行に旅立つ。逆に姉ヒラリーは平凡なフルート奏者として普通の幸せな家庭を築くことになる。
 姉と妹の分かれ道である音楽会のシーンから映画は二つに分かれる。そして妹が演奏旅行から家に帰ってきた時、また病気になって姉の家に助けを求めに訪れた頃からストーリーはひとつになる。
 映画のストーリーという点で見れば、天才的なチェロ奏者である妹、子供の頃に音楽会で優勝したもののそれから認められることのない姉、逆に姉の平凡さに憧れる妹、栄誉を憧れで見つつ自分の幸せを想う姉、という二つの視点に観客をうまく導いている。結局、病気になってしまう妹ジャクリーヌに同情し、彼女の突飛な行動(姉の夫との性交を欲する行動)、姉が身内である妹と成功した妹の姿をどうやって満足させるかという葛藤。暖かい家族から巣立って行く姉と妹ではあるが「絆」に縛られて苦悩したり、また「絆」を頼ることによって安心を得たりする。そのあたりの矛盾と葛藤がそのまま映画に漏り込まれている。
 こういう云い方でまとめてしまうと、よく練られて映画であって妹の病死というやりきれなさを除けば、天才といわれる人が持つ幸せへの飽くなき欲望と、平凡な幸せを掻き乱す嵐に対していかに平凡さが拠り所の無さを見せるのか、あるいは崩れにくい頑丈さを持っているのか、というひとつの例に見える。だが、このジャクリーヌ・デュ・プレが実在したチェロ奏者であって、大方実話に基づいているであろう映画の経過を見ていると、人が自分のために必死になって守っていくこと・攻撃することに対して、口を出すのはおこがましい、と思ってしまう。妹ジャクリーヌが取った行動、姉ヒラリーが許したことは、偶然と必然の賜物ではないか、という気がしてくる。それを良い悪いという結論は本人以外は付けられない。
 
 映画の中でひとつだけ意図的なものがあるとすれば最初に出てくる謎の人物が自分自身であったこと。「心配しないでいい」という言葉が末端神経症となってチェロが弾けなくなり聴覚も怪しくなり、パーティの夜に不安と恐怖に陥り身体の震えが止まらなくなったとき、姉の腕の中で子供の頃の夢・空想を一緒に思い出して、静かになっていくシーンだろうか。生の現実に立ち向かい戸惑い、そして家から送られ返して来た洗濯済みの服の匂いを嗅ぐとき、自分の居場所を再確認する。茫漠とはしているのものの急激な死への恐怖を押さえ込むことができるのは、豊かな幼児体験とそれを共有する人のみかもしれない。また「心配しなくていい」と自分に語り掛ける強さとそれを受け入れる運命と霊感がジャクリーヌには備わっていた、ということを意味するのだろうか。

update: 2000/09/18
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