書評日記 第596冊
ダーティペア 独裁者の遺産 高千穂遥
早川文庫 ISBN4-15-030655-9

 年末年始は仕事に没頭していた。没頭せずには終わらない仕事ではあったので、没頭していたのだが結局終わらなかった。人生、無駄が多くてナンボのところがあるけれども、仕事に没頭していた分だけ何かを得ているかというとそうでもない。多少の教訓を得た程度では失った時間との折り合いはつかない。
 たしかに、『才能は枯渇する』と思う。ならば、枯渇する擦り切れる前に為すほうがよかろうか、と。

 と、再び高千穂遥の「ダーティペア」を読む。仕事に疲れた頭にざっくりとSF臭を染み込ませるのは「グインサーガ」かこれである。かつて大人気を博した――今でも人気は高いと思う――このシリーズは女性二人組が主人公ということで藤島康介の「逮捕しちゃうぞ」に受け継がれて、様々な〈コンビ〉を生み出している。
 ケイの一人称で綴られる文体はSFの中では特殊と思える。普通の小説(SFではない小説)から文体を借りる(?)ならば、擬似歴史的な出来事に深みを持たせたり――「銀河英雄伝説」のように――、SFならではのスペースオペラの世界を広げるならば、ひとりの視点よりも三人称で綴られる文体のほうが似合っている。
 「あたしが」で始まる一人称の視点は、〈文学〉的に云うならば内省とか葛藤とか個人的な立場などを片面から描くために、いわゆる個人的な事情を描き個人的な感傷も交えて読者へ共感を求めるために使われることが多い。つぶやき、独り言、「あたし」個人しか知らない事実、あるいは「あたし」の視る世界、光の円錐はすべての人とは共感することが不可能であるという前提と、これを元にしつつも個人的な世界がまさしく個人にとっては全世界である外部との境界を切り分けていくために使われる。
 
 が、まあ、そんなことはどうでもいいのである。ケイとユリはトラコンとしてコンビを組んでいるし、この二人が組んで仕事をしている限り視点はケイのものであろうとユリのものであろうと大して違いはない。
 と思ったのだが、実はケイの視点に縛ってある書き方は意外と古風な作りをしているとも云える。一人称だの三人称だの、三人称の作品の中で一人称風の喋りや呟きが唐突に出て来たりする〈逸脱〉――あるいは固定化されないテレビ風の視点?――の多い昨今の小説からすれば饒舌的とも思えるケイの一人語りは高千穂遥の固執とも言える。――もちろん、「ダーティペアの大脱走」(だったっけ?)で二つの視点からひとつの物語を書くことが出来るのもこの固執から来る遊びなのだが。
 
 ともあれ、「コンソールをたたく」や「データを処理する」、「すかさずプログラミングして、それに組み込んだ」という文章は、「マウスを操作する」とか「インターネットで検索する」よりも、ずっとSFらしい。これは、アシモフの古いSFにはテレビが出てこない新しさ、あるいは具象化され切れていないために読者が創造する映像化に作品世界が追随する、この新鮮さを常に保つことができる。
 
 そんなことを久々に夜中に考えてみる。

update: 2001/01/24
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