書評日記 第595冊
バラバラの名前 清水義範
新潮文庫 ISBN4-10-128217-X

 と立て続けにメールを貰う。メールは来た時に読む。そして返事を書こうとする、が、少し書いて止める。止めてしまうとしばらく返事から遠のく。道を歩いている時もメールの内容を反芻している。どのように返事を書こうかと練習する。そして、仕事を脇にやってメールを書く。送信して一息つく。
 電子メールは手紙よりも気軽であるものの「言葉」から汲み取る肥大化した想像域は手紙と変わらない。言葉を選ぶと同時に言葉に縛られる。だから、返事を書く時に躊躇することは多い。と同時に、放り投げてしまう言葉もある。いや、最近は後から自らを責めることのないように電子メールの返事は普通を装う。日常的な等身大の範囲に留める。
 もっとも、この書評日記や私が書く小説は違う。最も個人的の産物でありつつ最も他人に共通・浸透する領域に踏み入ろうと努力する。そこには間違いも多いし、好みが違う故の他人との共感が得られない場合も多い。嫌悪はなおさらだ。だが、違うところと同じところを明確にしようとするときには表面化されなければならない相違点が確実に存在する。それは私ではない他人という存在、究極的には別個の存在でしかないという当たり前の違いなのだが、コミュニケーションというものを信じるならば、曖昧なままの直感を信じるしかないか、と時に思う。

 清水義範の小説を私は消極的に好まない。解説にある通り、パロディではなくパスティーシュだからかもしれない。結論を先に言えば『バラバラの名前』の解説をやっとわかった。師匠が半村良だそうだ。なるほど、半村良に対して足りなく思うところも清水義範は引き継いでいるのだろう。
 私が消極的に半村良を好まないのは毒の無さである。現実を土足で踏み荒らさない配慮が半村良の小説にはある。唯一『妖星伝』は違うと思うが、他の小説には「小説」の領域を越えないという不文律を律儀に守っている。だから、小説が崩壊することはない。うまくいかなくなって最初に計算されなかった場所に行ってしまうことがない。逆に言えば計算部分しか出て来ないという危うさが欠けている。
 もっとも、かっちりとした小説のスタイルを守るという意味では半村良は随一であると思う。また、清水義範も同様である。特に「
旧石器の男」は面白かった。架空ではなく実在の人物を忠実に追う――伝記としてはちょっとひねってある――小説は、本のタイトルになっている「バラバラの名前」よりも面白い。
 多分、文体模倣=パスティーシュに留めておいて毒舌=パロディに至らないところが私から見て、もう少し捻っておけばいいのに、と思うところなのだろう。勿論、毒を振りまかずに文体模倣で突き進むしか至らない場所、というのもあるのかもしれないが――あいにく私には想像できない――、どちらかといえば異化・スキャット・寓話性などの文学手法を絡ませても良いのではないか、と思う。当然、清水義範ワールドという作者を中心とする領域があって熱烈な読者はいるのだろうが。
 「モットー選定会議」や「渋滞原論」にもう少し突飛なオチがあってもいいような気がする。多少強引なものが欲しいと思う。筒井康隆に私が毒されているだけかもしれないのだが。

update: 2000/10/09
copyleft by marenijr