書評日記 第603冊
猫ばっか 佐野洋子
講談社文庫 ISBN4-06-273079-0

 毎日書評日記を書いていた頃はほぼ毎日一冊の本を読破していた。通勤時間が片道で三時間以上という読書環境が整っていたこともあるが、何かに飢えていたのだろう。それが何かと云えばありきたりの愛だったりするのだが、庇護にせよ目標にせよそれを渇望していた頃の狂気な私は自己中心的な世界に呻き声を挙げたフリをしていただけなのか。再びいま、自己撞着的に自由な言葉を紡ぎ上げようとして躊躇する。空間的に狭い小説を形作ってみては五枚と行かずに投げ出す。いや、一日夜中に一時間書き五枚分だけキーボードから打ち込んでは絞り切った(と思っているだけか?)様子で布団に潜り込み自分ではない温もりを感じようとする。まさしく貪るように人の好意を喰い散らかし同時に会社という場から安全な逃亡を試み世を知らぬ学生のように安全圏へと逃げ込もうとする。
 踏み止まり足の裏から根が生えそのままく去り切ってしまうほどの勇気が今の私にはなくだからといって一般への融合を試みる努力をしない。
 
 佐野洋子は自分の言葉をひとに向けない。量の手の平でちょうど抱えることができるだけの広がりを持ち、なおかつ、そこから猫のように飛び出す空想をやさしく眺め続ける。余裕、というほど懐が深いわけではない。だが余裕がないというほど世の中を客観的に見る目を失っているわけではない。ちょうど精一杯でちょうど苦くもあり楽しくもある遊びを佐野洋子は心得ている。
 彼女の描く猫の絵は色っぽい。かつ人間臭く人間離れしている。うすいペチコートを着た猫の姿は熟れた娼婦を思わせ、「猫ばっか」の表紙にある猫の姿は苦沙弥先生を見つめる我輩そのものである。ほんとうはひょっとすると人間の世界よりもずっと遠くに生きていて傍らにひょこひょこ歩く二本足の動物を眺めもせず暮らしている猫かもしれず、逆に夜中に蹲った白い猫の目を覗き込むと泥のようにクタバルのもの一興ではないか、と思う気もしなくもない。
 もし、去勢されてデブ猫になってマンションの一室で外に時々出るぐらいでふみぎゃあと一日を過ごすことになったらどうしようか。目の前の狂気も交通渋滞も混雑した横断歩道も朝の遅刻も罪悪感もきれいさっぱり忘れることができるだろうか。いや、無理かと思う。そんな人間達を哀れに思いつつも自分の身に降りかかったスタイルに美しくもない雑種に埋れた自らの腹に舌打ちをしつつもふみふみと動いているような気がする。
 人間は一万年経ってそれなりに進歩を遂げたのだから猫も進歩を遂げているに違いない。どのようにと問われると私は猫を飼っていないのではっきりしたことはわからないが、おそらく美味いものに満足してネッコロガルわざは人間よりも知っているのではないだろうか。

update: 2001/03/08
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