書評日記 第606冊
ダンサー・イン・ザ・ダーク ラース・フォン・トリアー
ツェントローバ・プロダクション

 弱視のセルマの現実世界はぼやけて揺れている。まるでドキュメンタリー映画のようにセルマの現実は進んでいく。一変してミュージカルシーンになると画像は鮮明になる。セルマ自身の〈現実〉は弱視から見える現実世界ではなくて音楽と共にある想像の世界にある。
 カメラが常にゆらゆらと動きちょっとぴんぼけ気味の画像は確かにドキュメンタリー映画を思わせるような迫力がある。観客の感情移入は、セルマの厚い眼鏡越しに見る彼女自身とは遠く離れた現実へと無理矢理結び付けられたように深く陥ってしまう。映画の中で起こる〈現実〉は観客席とは違う場所にあるはずなのにその幻想を引き剥がすことができない。こうやって感想を書いているときは、客観的に考えられるものが、銀幕を目の前にしてそれだけに魅入っているときには、銀幕の中にあるものこそが〈現実〉であるように信じてしまう。それだけの力がこの映画にはある。いや、ドキュメンタリー・タッチの映像から人は逃れられない現実感を受け取る。
 ミュージカルシーンの鮮明な画像は、いかにも映画らしく――映画でもあるにも関わらず――先のドキュメンタリータッチとは全く正反対の映画的な幻想へと観客を誘う。百台のカメラで撮影されたショットはさぞ編集が大変であったろう。だが、素材を切り取り貼り付け組み合わせて作成される映画という作品的な魅力を存分に味あわせてくれる。〈現実〉の中に不可逆的に流れていく時間とは違って、立ち止まり進み時にはゆっくりと流れときには速く流れていく人為的に操作された空間、監督や演技者が伝えるべきものを目的を以って伝えてくる安心感を与えてくれる。
 そういう交互のシーンが「ダンサー・イン・ザ・ダーク」にはある。セルマの現実と空想が交差して、ラストには現実に空想を織り込む仕掛けになっている。作品が訴えかけるよりも観客が考える方向へと突き進む。だから、観客は渾然となって映画の世界に潜り込むことができる。
 まさしく「感情的」な映画だと思う。大きな可能性を観たような気が私はする。

update: 2001/03/12
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