書評日記 第613冊
羊をめぐる冒険 村上春樹
講談社文庫

 云わずと知れた巨匠・村上春樹の初期長編作品。
 
 彼の作品に本当に癒しの効果があるならば、同時に窒息と死を潜る復活が無ければならない。村上春樹の作品でよく指摘されることだが、主人公が「やれやれ」と溜息をつくことと、その消極的な言動にも関わらず実に都合よく女性が出現し性交(セックス)をし、消え去っていくことが挙げられる。「羊をめぐる冒険」では、主人公自身が「やれやれと云うのが口癖になってきつつある」と三回め(と思う)の「やれやれ」の後に言い、最終的には五回程度の「やれやれ」を作品中に出現させている。作品の長さからすれば「やれやれ」の頻度は「世界のおわりとワンダーランド」よりも少ないし、「羊をめぐる冒険」に限っていえば、「口癖」になるほど数多く出現しているわけではない。しかし、もともと小説というものが同じ言葉を繰り返し使うことを嫌い、別な言い方・言い回しを駆使することに文学的な美学を求めている――現在はその法則に囚われてはいないが――のだから、確かに「やれやれ」という単語が「羊をめぐる冒険」に五回も出てくるのは作者・村上春樹として「口癖」と思えるほど頻度が高い、と思ったに違いない。
 主人公は、最終的には彼の友人や黒服の男などに導かれる形で星型のしるしを持つ羊を求めて北海道へと旅立つことになっている。一瞬、陳腐とも思えるような幽霊話の結末が霊的な存在と羊男というピエロを組み入れた〈物語〉に昇華しているように見えるのは、後に「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」に詳しいように、村上春樹の描くものが無意識に近いところで正しく書かれているということが言及される。
 しかし、主人公の人生に介在しない女性の存在――彼女は彼の終末には現れず意図的に除外される――や、都合よく離婚されてしまう主人公の妻や、黒服の男への敵意が一瞬にして優しい仲間内の会話になってしまうのは、男性社会が守っている利己的な社会性と同性=男仲間に対する身内意識を思わせる。確かに、ビジネス小説ではないのだが、彼の読者層が、安定した社会の中にあっての緩やかな波紋を気遣う人たちのように見える(実際は
どうなのかはわからない。少なくとも私にはそう見える)ために、あるカテゴリは除外されてる懸念が無くもない。
 当然、相補的に村上龍の存在があるので、村上春樹が社会が内包する言語化されぬ部分を切り開く一翼を担うだけでも十分なのであるが、あくまで個人を主体として社会への目を養っていく大江健三郎・安部公房のスタイルとは違って、前世的に存在する社会の中からより居心地の良い居場所を見つけていく村上春樹のスタイルはいまひとつカタストロフィを私は感じざるを得ない。つまり彼の背に追随していくには危うさを感じる。
 村上春樹は「社会へコミットしない」形でいままで小説を書いてきて、「アンダーグラウンド」にてコミットする形に変貌を遂げたと巷で言われているのだが、同時代的に村上春樹の小説に触れることをしなかった私が、時間に逆行し切断された個人的な思想の変遷を眺めてみると、社会現象に対する現実的なコミットの仕方――たとえば村上龍が援助交際を現実の女子高生にインタビューすることによって作り上げるという「取材」中心の方法――は、ジャーナリズムとマスメディアによる報道を意識したより都会的で狭い範囲に焦点をあてる非永続性(いわゆる「興味の赴くままに」という言い方)を元にした仮想的な分衆に対するメッセージに囚われていないか、と思わなくも無い。
 とあるメーリングリストで見かけた「村上春樹と社会の成熟性」の問題は、確かに現実として村上春樹の小説がアジアによく読まれている現象を掴まえあわせてみると、「成熟」というよりは一種の停滞、成長曲線におけるなだらかな丘に至り、次への量子的なジャンプに対して不可欠なバネエネルギーを溜める時期を意味しているような気がする。それを「成熟」と言うのか困惑した時代と呼ぶのかは個人的な生活スタイルからの視点の違いに過ぎないのだが、少なくとも村上春樹が小説を書くことと村上春樹の小説を読むことの差異が大きい場合、そこには作者・読者ともに意図しえない憂鬱が潜むのではないか、と思ってしまう。
 そんな意味では確かに村上春樹は新しい日本文学の世界を切り開いたには違いないのだが。

update: 2001/03/20
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