書評日記 第612冊
アネモネ駅 近藤ようこ
青林工藝舎 ISBN4-88379-009-6

 帯から
「時代に左右されることなく読み継がれるマンガ作品がここにある!」

 久し振りに近藤ようこの本を買って読む。大学の頃「HORIZON BLUE」を読んで以来、時々買って読むことにしている。
 近藤ようこの漫画に触れるときは状況が限られている。何かを深く考えたいときに手に取ることにしている。自分の中でぽっかりと空いた心の穴――というフレーズをまじめな顔をして言うのは恥ずかしいが――を埋めるように、底の見えない深い井戸を水で満たそうとするようなときに一冊ずつ買い足しては読み下すことが多い。
 小説と違って漫画のほうは読み返し易いので何度も繰り返し読む。かつて高校の頃にアニメ映画をカセットテープに録音(と)って夜に幾度となく科白を覚えるまで聞き返したように、飽きずに再読する。小説のほうは一点集中型というか一通り読むと活字が頭に染み込んでしまうので読み返すことは少ない。もっとも、ストーリーを完全に覚えているわけではなくそのときの自分の都合のいいように解釈をしたり筋書きを間違えて覚えていたりするので正確性は低いのだが、肌への張り付き具合は小説のほうが粘着性が高いためか二度読むことはほとんどない。
 実は、私が近藤ようこの本を一冊ずつ買い揃えるのはかの漫画が〈小説〉のように再読が難しいところに原因がある。手にとってぱらぱらとめくってはみるものの、他の漫画のように読み返すことはできない。あたかも一度読んだ小説のように内容が頭の中から導き出されて目の前の絵と照合され、以前に読んだときの気分が前面に出てきて邪魔で読みづらくなる。絵を追う活字を追うというよりも過去の想い出を逐一追うような気分がして疲れる。よって私には近藤ようこの漫画は再読に適さず一冊づつ買い足す以外になくなるのである。
 
 何が魅力的なのか、と云えば「時代に左右されることなく」なのだが、時代に左右されないことは在る意味で、どの時代にも迎合しない離反性を持っていると云える。しかし、時代と一緒になることの出来ないものの、個人的な人生と伴走ことができるから、時と場合を選んでひとつずつ拾うことが出来る。
 例えば「褪紅(たいこう)」は、もはや完全に核家族化してしまった私たちの世代には現実に起こりえない過去の出来事として葬ってしまうことができるのだが、ひとつ年を取った頃を想像してみれば、品は変わったとしても、綿々と引き継がれる姑と嫁との関係、ひとが家族の形を求めていく限り受け継がれざるを得ないしがらみを具象化しているように思える。最後に姑が亡くなり褪紅の着物を一緒に棺の中に入れて燃やしたとき、初めて嫁は外面的には解放されたようにみえる。しかし、既に年齢とともに身についてしまった褪紅は肌からはずすことはできない。女性の老い、安定した家庭願望への束縛、現実と年を経た諦め、重く動かない時間の流れ、を思うことは何時の時代でもたやすい。
 もちろん、近藤ようこの描く女性たちはちょっと過去にあった現実に縛られていた状況をベースにしているので、昨今の華やかを主とする女性の社会進出――という言い方自体古いのだが――の喧伝からは遠く離れているのかもしれないが、重く圧し掛かる現実と過去は、いつの頃であっても継続の中にしか本物はなく、結局のところ振り返ってみれば為された過去だけで今が成り立っているという当然の理(ことわり)を思い返してみるのも時にはよかろう。
 表面的ではなく浸透する文学があると思う。

update: 2001/03/19
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