書評日記 第615冊
地の果て 至上の時 中上健次
小学館文庫 ISBN4-09-402620-7

 長い小説であった。総ページ数六五〇だから超長編とは云わないのだろうが、実の詰まり方は普通の小説よりも何倍も多くて速読や流し読みが効かずひと言ひと言拾い読みをするように読み進めていったら一ヶ月半以上かかってしまった。
 一冊の本に掛かりっきりになってしまうと心の動きが止まってしまうような気がして、あちこちに読み飛ばし用の本を置いては再度中上健次の「地の果て 至上の時」に戻る、という読み方を繰り返していた。
 月に一冊出る小学館文庫の中上健次選集をひとつづつ読み言及していくというホームページがあった。メールを貰って一冊読んでからと思ってみたものの、当時多忙さを気にする私の日々の中では中上健次の小説は圧力が強過ぎて何を書いているのかわからなかった。
 確か、エヴァンゲリオンと比較して少年と成長と父殺しなどの共通項を挙げて的を射た評論を展開していたはずだが、URLを紛失してしまったためにいま再び訪れることができない。また、返事も出していない。
 私は中上健次の小説に対して何ひとつ言及ができない。研究もできない。というのも、私の得意とする似非文学に対する似非文学論では中上健次の小説に通用せず、まっとうな視点からまっとうに得られるものを記述する至極当たり前で正統であるが地味な作業を強いられるためである。このために、私は中上健次の小説に対しては一読者――どれに対しても一読者なのだが――の居場所から動くことができない。
 「地の果て 至上の時」は巻末にある小島信夫と中上健次の対談にあるように、秋幸と龍造の父子の関係を中心に据えて、二人の周りを巡るあらゆる現実を忠実に再現した作品である。著者が読者にこうと訴えかけるあるいは読者を遊ばせるよりも、第一に著者・中上健次がこうと考えた通りに忠実に一歩一歩書き留めていった印の束が「地の果て 至上の時」に成った、という感じである。だから、切り口を設けてこの小説を裁断することは不可能で、まるごと中上健次の造った道を辿って行く「歩み」そのものを必要とする。
 中心的な流れを言えば、弟を殺して三年間刑務所で暮らしたが刑期を終えて戻ってくる。路地と新地の変貌。父親・龍造への叛意、あるいは同情。龍造と秋幸の血の繋がりは秋幸が私生児であるからこそなお濃い。疎遠とは違って絡み合うような密接な関係はさと子への近親相姦も含めて、狭い空間での無駄な思わせるが、何よりも日本的である家族の絆の表裏を現実に突き合わせてみれば、見知らぬ街への冒険よりも帰趨するべきムラへの無意識な執着のほうがずっと重く地にへばりついた現実なのである。
 そのあたりを丸ごと掬い取り切り落として書き削ぐことなくどさりと目の前に供出される驚きと中上健次の執念に読者はただ黙々と食い尽くす他ないのであろう。
 できることならば「枯木灘」、「鳳仙花」あたりを先に読むと良いだろう。「地の果て 至上の時」の長さと彼特有の雰囲気に絶えるだけの体力をつけることができる。「カラマーゾフの兄弟」も読んだほうが良いらしい。私は再度挑戦してみる予定。

update: 2001/03/22
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