書評日記 第616冊
百円シンガー極楽天使 末永直海
新潮文庫 ISBN4-10-128631-0

 見知らぬ作家を読む週間……と題して五冊ほど買ったその一冊。
 
 主人公・夏月リンカはレコードデビューを果たしていないドサ廻り歌手である。ヘルスセンターを巡ってはおひねりを貰って生計を立てている。不倫の相手・大樹は妻のところに一ヶ月に一度しか帰っていない。大樹はリンカの歌手稼業を良く思っていない。でもリンカは歌の中にこそ水を得る場所があると思い車付きの衣装ケースを「ガラゴロ」と引き回しながら仕事へ向かう。三十八歳を二十八歳にごまかして人の歌を歌う。自分の持ち歌はなくて一時だけ名前を覚えて貰う。
 
 この小説には芸能界特有の泥臭さはない。暴露もないし純粋に(?)ドサ廻りを続けるスポットライトの当たらない世界を描いている。だからといってじめじめしているわけではなくて、リンカの一途な性格もあって実に前向きにときには不安も交えつつ話はすすんでいく。
 おそらく著者・ 末永直海の実体験を交えたものであろう。実際はもっと遣り切れないものが含まれる現実があるのだろう――と想像してみる――が、そのあたりはうまく削ぎ落とされている。これは作者の性格なのか作者の希望する主人公の性格なのかわからないが、華やかな芸能界の裏、というよりも、平凡なサラリーマン生活とは違った――大樹は現場監督であるし――視点と場所から出発する一種のファンタジーを含んだ物語となっている。もちろん、私がサラリーマンだから「別の視点」となるのだが、実際にドサ廻りをしていたり現場監督を含め体力勝負の職業についていたり貧困と夢とのはざまに住み続けている人にとっては共感すべき同一の視点、あるいは、そんな甘いものではないという反感と物語特有のご都合主義が見え隠れするのかもしれないが、まあ、それは私の想像の域を出ないのでこれ以上追求しない。すくなくとも細野不二彦「BLOW UP」や大槻ケンヂ「チョコレート・グミ・パイン」のように生き生きしている。ちょっと外れるかもしれないが松浦理恵子「親指Pの修行時代」を思い出させなくもない。
 
 さて「ご都合主義」と書いたがそれほどご都合でもない。結局のところリンカはレコードデビューを果たせないし――自分で選んだ道でもあり詐欺に落ち込まなかったという結果でもあるのだが――栄光の日々とは正反対のドサ廻りを胸を張って進むことになる。まあ、なんというか男二人に同時に惚れられているのだからそれで十分というか前途はそれほど多難ではないのだが、いわゆる巷の「勝ち組」とは全く違ったパターンで人生を生きていく、という結末に至る。
 主人公・リンカはドサ廻りの心意気を改めて獲得するのだから時間の流れに沿って〈成長〉を遂げることには違いないのだが、生活は小説の最初と最後で変わらない。三十八にもなって――というのも失礼な言い方だが――〈成長〉もへったくれもないものだが、これひとつを信念として生きてきたならば、もう少し続けてみるのがいいんじゃないか、とう応援歌でもある。長く続けてくるにはそれなりの理由がある。途中下車するのは簡単だが二度と乗れない列車もある。そんな完全に演歌の世界そのものなのだが、私にはとても気持ちの良い小説だった。

update: 2001/03/23
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