書評日記 第617冊
江戸の見世物 川添裕
岩波新書 ISBN4-00-430681-7

 さすがに一日一冊はきつい。笙野頼子「皇帝」、ボルヘス「砂の本」を交互に読んで、河野貴代子「性幻想」に浮気をしていて一冊読み終わらなかった。ビョークのCDを取り上げようと思ったがまた明日にしよう。今日は、ちょっと前に読んだ「江戸の見世物」を紹介する。
 
 買ったのは荒俣宏著「万博とストリップ」だから随分前だ。随分というよりも半年以上も前だ。カニバ・カーニバルを書こうと思って再度頓挫してしまったので、演説やサーカスの前口上や見世物に関する知識を集めようとしていた頃だ。
 最近は再び江戸ブームなのかやや退廃が混じり始めた頃と現在を比較した本が多く出ている。インターネットビジネスやIT革命や五〇代から始めるパソコンのように最新技術(のようなもの)を追う一方で「江戸」という過去と昔の最新流行を追ったところに興味が集まっている。歴史的な解説とは違って江戸の文化、もっとべたに民衆の遊びの領域に足を踏み入れるのである。
 黄表紙という江戸の雑誌があって当時の歌舞伎や芝居を取り入れた読み物がある。今と同じでしばらく経ってしまえばそこに書いてある役者や巷の流行・戯れ言は解読するのが非常に難しい。今で云えば渋谷のファッションセンスを百年後に問うようなものだ。
 江戸時代は三百年ほど続いたが、その間に何が発展したのか私にはよくわからない。ただ、明治以降、近代の科学技術が猛烈に発達していわゆる「都市」を中心にひとびとの生活が形作られて来たとは逆に、すぐには崩壊しない停滞をゆるゆると続けて来た安眠の時代だったような気がしている。
 もちろん、今のような目覚しい技術的な発展こそが唯一の発展とは云えない。またバブル崩壊以降、技術革新に反発さえ覚えながら自らの未来数十年を考えてみたりもする。
 
 と、そんなことは全く関係ないのかもしれず、「江戸の見世物」では、籠編み、細工もの、珍獣、軽業、生人形が並べてある。巷にある奇妙な博物館同様、かつて江戸にも見世物小屋がたくさんあった。というか、日本の場合は見世物小屋があって今の博物館がある。西洋の博物館が収集された物の陳列重視に対して日本の見世物は技を競う芸人根性が並んでいる。閉鎖的な鎖国状態の中では略奪も簒奪もないので内向きになって細かいところに焦点を絞ることになったからだろう。ただ、中国の磁器や彫り物とは違って、手先の器用さを競うよりもちょっと変わった趣向を凝らすところに差異を認めるところがある。これが籠細工だったり野菜涅槃図のような細工だったりする。軽業にしても身の軽さ体の柔らかさを競う中国雑技団ではなくて、口上と洒落を集めた染之助・染太郎のような業に身をやつす。日本の軽業師・早竹虎吉は日本の中でおおいに受けるのであるがヨーロッパに行くと言葉が通じない分だけ業を観客に伝えることができず不評と終わる。伝承された音曲、紛装に対する意味性はイコール内輪受けの笑いとも取れるが民族内での歴史性や文化を色濃く残し磨き常につづけているとも云える。
 生人形は四谷シモンの人形を思わせる。究極的に人肌を思わせる黛人形が作り上げられたとき江戸の人々はフェチシズムに狂ったかどうかは知らないが、この生人形路線は、万博のほうへストリップとして引き継がれる、とするとそれはちょっと強引だろうか。
 
 まあ、なんにせよ見世物、万博、パロディ、過剰な技術の退廃、そして凍結された幻想と繋がっていく。そうすると技術革新だ貿易赤字だ遺伝子技術だIT革命だと巷はいろいろ煩いのであるが、ここはひとつ腰を据えて木彫りをするように生活していく時期があってもいいような気がする。

update: 2001/03/24
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