書評日記 第626冊
極楽 笙野頼子
河出書房新社 ISBN4-309-00947-6

 笙野頼子の小説は先駆的である。村上春樹の本が世間に流布されたときに新人文学賞に集まる半分の作品は村上春樹の書く小説のように〈主人公の内面もどき〉を描いたものだったそうだ。その中で現実に小説家として村上春樹の後継になった人を私は知らない。むろん、村上春樹が描く小説の手法と笙野頼子のそれとは全く違っている。「グロテスクな」という形容詞を使えば一言で収まってしまいそうであるが、それ以外の言葉を使わずに表そうとすると笙野頼子の小説を語るためには高橋源一郎が「退屈な読書」で云うように本二、三冊分を書かなければ笙野頼子の本一冊に匹敵しないだろう。だから、ごく一般的で手垢にまみれた「グロテスクな」という表現を笙野頼子の小説に下してしまい、拒否することはやさしい。だが、その「グロテクスな」小説を表面のままでさえ真似をすることはむずかしい。それが巷で云う「私小説的である」と呼ばれる笙野頼子の小説の所以である。これは、ひとりの私小説作家と他の私小説作家の区別を個人的な体験に基づく微妙な差異に求めざるを得ない類型と個体の混在が混乱を呼んでいる。しかし、一種形而上的な類似を以ってすれば笙野頼子の形式を真似るのは難しくはない。「観念小説」というカテゴライズがフランス文学界にはあるし――マリー・ダリュセック著「めす豚」とか――また、日本においても笙野頼子の小説の類型が過去にさかのぼって認められたからこそ、笙野頼子自身の暗黒時代が〈暗黒時代〉として披露されるに至った。当然、「観念小説」というカテゴライズは、笙野頼子の小説の側から見れば単なる類型化のお遊びでしかない。陶芸家や落語家の技術が根本的には伝授できない個性と呼ばれる啓示から成り立っていると同様に、笙野頼子であれ村上春樹であれ高橋源一郎であれ、他の作家と摩り替えることは不可能だ。しかし、とある作家のファンはとある作家の支配下にしか住まない場合が多くあるものの、個人から排出される作品や伝達意思が個人が饗する人生に全一致しないのだから、読者は全人格の一面をとある作家に対してパラボラアンテナ化させることになる。このために一種テレビ化されて受信される読書という行為は、オンオフの効くスイッチを持つのであるが、送信元にある作家の毒素、正確に云えば作家が作品化した対象にともに踏み込む場合に必要な薬物の効力は、読書を離れた逆向きの一面にたいして様々な威力を発揮させる。このような場合、一定の法則で類型化することのできる薬方としての笙野頼子の小説があり、またまだ見ぬ笙野頼子の小説や笙野頼子以外が書くであろう彼女の毒素を共有する作品を誰かが産み出すことは不可能なことではない。たとえば、村上春樹の類型が彼のデビュー以後に雨後の筍のように頻出したものの世間一般に出回ることがなかったという事実を踏まえれば、村上春樹の類型が「村上春樹の類型」しか産み出すしかなかった開拓地の狭さを示してもいる。「観念小説」という敷地に笙野頼子を解き放つことは批評が持つ類型化としては簡単だが、彼女の小説を読み進めれば「観念小説」という場が明らかに既知の小説とは違った場所というネガティブな分類しかされていないことが分かる。実は類型化できない場を、既知の全体系の支配下におさめることは数学的に矛盾している。だから、様々な可能性を持つ形で笙野頼子の小説は現れる。ゆえに先駆的なのである。――ここで、村上春樹、高橋源一郎の名を出したのは、解説で『笙野のデビューと前後して輩出した新人作家のなかで、彼女はちょうど村上春樹と高橋源一郎に挟まれる』とあったため、としておこう。
 
 「極楽」、「大祭」、「皇帝」というタイトルからわかる通り作者の気負いの大きい作品である。気負いが大きいためか小説としては完成されていない。もちろん、笙野頼子の小説を読む場合、既存の小説という分類は無意味であって、型の無い〈小説〉は音楽や絵画と似て作品として捉えるほうが正しい。小説家として営業的にどうであるか、を不問にしてしまえば、この三つの作品で行われる洞察はひどく正しい。正しく書き付けることは実は身を細らせることにも等しく、読み手にとってもいわゆるエンターテイメントとはかけ離れて剥ぎ取られた心象に近ければ近いほど正視に耐えないという「嫌悪」を呼び起こす。片方でスカトロジーという形でフェティシズムを煽る趣味的な嗜好――時において筒井康隆の小説はそれである――も手法のひとつなのだが、この三つの作品にして云えば正攻法であるがゆえに正面から受け入れがたいという矛盾を引き起こしている。当然、後に来る「二百回忌」や「タイムスリップコンビナート」(生憎、「レストレス・ドリーム」を読んでいない)が営業的に成功した(と思う)のだから、笙野頼子のスタイルは社会に通用するようにある程度変容したのだ、と云える。「皇帝」を「ミステリアスな小説」という既存のカテゴリに収めるのは甚だ無意味であり、単なる類型化のための類型化でしかない。だから、解説で清水良典自身が言うように『笙野頼子ならではの処女長編として深く愛している』と言い直すほうが良いだろう。
 ちなみに云えば、私にとってこの三つの作品はすんなりと喉を通り過ぎるものであった。講談社文芸文庫版の「極楽」の解説にあるように「明るい道を生きてきたひとにとってこの作品は嫌悪されるだろう」とある(ったと思う)のだが、共通する部分があれば比喩的にも直接的にも書かれた吐露であっても、直視に耐えうる。――尤も、「直視に耐えうる」ほどに私が自分を客観視できるようになったのだが。

 書くことへの執着と孤独の中でも目を反らさない執拗さの必要を思い知ることができる。そういう意味では、山田花子にも似ている。

update: 2001/04/08
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