書評日記 第627冊
バッファロー’66 ビンセント・ギャロ
カルチュア・パブリッシャーズ

 渋谷のパルコで上映していた頃に行列を為していた。テレビCMを見たことも幾度かあったが、何故ロングラン上映されているかわからなかった。
 が、ビデオで見れば一発で理解できる。あるとき誰もが気付いたであろう幻想と現実と目の前の幸福(あるいは幸運)が忠実に描かれている。それが噂を呼び観に行きたいと思わせるのだろう。
 
 冒頭で主人公のビリー・ブラウン(まるで山田太郎のように平凡な名前)は刑務所から出てくる。彼自身は凶暴を装っているけれども、根は正直者だ。微妙にお洒落な服のセンスは監督兼俳優兼音楽担当のビンセント・ギャロ自身の趣味でもあるのだろう。ビリーは親に刑務所に入っていたことを隠している。親に心配を掛けまいとして友人に親に送る手紙を頼む。また、途中で出会った女性を妻として親に会わせようと頼み込む。こう書いてしまうと、単なる映画ならではのトリッキーなストーリーに思える。しかし、ビリーの律儀な行為と人への不器用な接し方と彼の両親との隔たりとが、どれも決定的な破滅や解決に至らずにビリーから見る世間への態度を微妙に歪めている。その微妙さ加減が誰にでもある正直さと、幼い頃に持っていた周りへの視線とを正確に表している。だから、ビリーの行動は不器用に見えるが、他の映画や小説から見れば取るに足りないことあるいは既にある前提のものとして描き飛ばしてしまっている部分、あるいは人が〈大人〉になっている前提の部分を、ビンセント・ギャロが律儀に追いつづけているために、不器用というマイナス面ではなく「優しさ」として十分に強調される。正直さや率直さが或る時点で「馬鹿」に等しくなってしまうのはグーン(まぬけ)というあだ名を持つ友人をビリーが持っていることで示せるし、ボーリングでトロフィーを幾つも獲得できる才能を持っていてもウェンデイ(これはピーターパンのウェンデイを意図している?)に片思いを寄せる内気でかつ律儀な態度しか取れない。レイラを妻に仕立て上げるときだって、自分の持つ「夫婦」という形に無理矢理彼女を押し込もうとするが、彼が幻想する「愛する」形と世間一般の「愛情」の形――これは「バッファロー’66」の観客の持つ「愛情」と等しい――とは違っている。ホテルでビリーはレイラにセックスなしでやさしく抱かれるしかない。ビリーはスコットを律儀に殺そうとするが、彼は空想の中で血しぶきを浴び、墓の前でフットボール観戦を続ける両親の姿を想像し、ハッピーエンドへと突入する。根本的に(想像力を持つことができるという意味で)頭の良いビリーは決定的な破滅を回避することができる。しかも自分の手で回避するのである。これを恥ずかしげも無く映画にできるビンセント・ギャロの才能は素晴らしいと私は思う。
 
 別の面で「バッファロー」を眺めると、映像が四角四面であるところが面白い。小津安二郎の形式美に似るところがある。ビリーの律儀さが映像に表れる。レイラを引き連れて両親に会い食卓を囲むところで、ビリーは輪の中に入れない。四角に区切られて平行にテーブルが配置される。父親にもレイラにもスポットがあてられるがビリーにはない。ボーリングでストライクを取りガッツポーズをするビリーの姿は自己陶酔という欠点を露骨に出してはいるけれども、注目を浴びたいという内面を素直に表に出せない屈折した感情を持っている。「屈折した」と書いたが、ビリーにとっては真っ直ぐなのだ。笙野頼子が彼女自身において真っ直ぐなようにビリー・ブラウンにとっても真っ直ぐにやっている。世間が歪んでいるのかそれぞれの人たちが歪んだ社会の中でも生きる術をそれぞれにおいて発見していったのか、ビリーはそれを知りえなかった。

 最後のシーンでビリーはレイラにココア(ホットチョコレート)を買いハートのクッキーを買う。ついでに客にもハートのクッキーをプレゼントする。一種の多幸症の気分。あるいは、ハッピーな発見とはそういうものだ。絶対に。

update: 2001/04/09
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