書評日記 第647冊
子どもの体と心の成長
カロリーネ・フォン・ハイデブラント
イザラ書房
ISBN4-7565-0050-1

 私事ですが子どもが産まれます。来月の3月中旬が出産予定日。一児の父親となるわけですが、そのような心身の準備ができているか、というとそうではありません。また、良き父親になれるかというとそういう自信はありません。名前はまだ決まっていませんが「まれに」ではありません。なんか、そう、期待と現実と幻想が混ざったような形で日々が過ぎるのかと思えば、そうでもありません。
 母親と違って父親の場合、自分が孕む訳ではないので、そのあたりの感激なり感慨が産まれるまでは現実味がないのが普通なので、大きなお腹に手をあてて胎動を感じながら、動いていることを実感するしかないのです。とはいえ、最近は超音波写真や3D映像などを見せてくれるので、突如として産まれるというよりも、まだ落花生の形でしかなかった胎芽が人の形に育っていく過程は、まるで、生物の授業を受けているようです。
 とはいえ、身内の間では専ら「髪の毛が濃い赤ちゃんだろう」という話です。私もパートナーも髪が太いので。
 
 子どもは親を選べないが、親は子どもに対してどのような教育を受けさせるか選択することができる。地域や経済の差、国の方針などがあって、一概に希望する教育を受けさせることができるかといえばそうではない。ただ、〈芸術性〉を重んじ〈創造性〉のある育ちを考えていくなかで第一の候補としてあがるのは「シュタイナー教育」ではないかと思う。東京では三鷹に小学校がある。しかし、公立の3倍から4倍の負担が親にはかかる。経済的に裕福あるいはそれなりの学費を捻出できる気力がなければ高度な教育は受けられないという現実がある。
 ただ、思うに「高度な教育とは何か?」を考え、自らの過去と比べ合わせたとき、幼い頃の英才教育なり学習塾なりが将来にどのような影響を及ぼすのか、あるいは親である自分自身にどのような影響を与えるのか、考えだすと、人が何者かに育ちあがるときに必要なものは、月並みではあるが親との接し方や愛情の与え方/与えられ方ではないだろうか、と私は考える。
 シュタイナーをして本書の著者であるハイデブラントを「生まれつきの教育者」と言わしめている。教育において一番必要なのは、対象となる子どもを強引に導く指導者ではなく、かの子どもをよく観察し、かの子どもが一番伸びる方向を示唆することのできる理解者である。人が生まれつき様々な環境に生れ落ち育ち、非平等といえる親元で育てられているからこそ、個性は個性として育ち、才能は才能として伸びるところがある。育ちにおいて後天的な環境は、ワインバーグの言う「サバイバル規則」を強めていく。その規則が、社会においてマイナスに働いたりプラスに動いたりするものもあるだろうが、およそ慣習に従う動物である人間は、生き延びるために社会性と自らの感情を破壊されないように生き延びていく規則を自らに作っていくのである。
 そういう多様性の中でハイデブラントは、子どもの性格を多血質/憂鬱質/胆汁質/粘液質という4種類に分ける。これらの性格や行為は昨今の占いによる性格分類とは異なり、かの子どもの行動を慎重に観察することによって、かの子どもがどのように教育を受けたらば才能を伸ばせるのか、あるいは創造性を導き出すことができるのか、というスタートラインに過ぎない。この分類は、フロイトの精神分析にあるような一見心理学上の分析に過ぎないように見えるのだが、単なる観察と分類による学問的興味とは異なり、集中力を持った観察を子どもに向けることにより、子ども自身が持つ世界観や創造性を育て広げる形で、かの子どもの気質にあった教育行為を行っていこうという姿勢の表れになる。
 最近、コーチングやメンタリングという手法が会社の中でもひとつの人材育成の手段として取り入られつつある。一種強引で盲目的な強いリーダシップを離れ、個々人に向き合い個々人の性格に沿った形で能力を引き出し仕事へと生かしていこうという試みになる。ままで「弱さ」として捉えられていた「協調性」が本格的に見直されている時代なのだと思う。
 
 
update: 2005/02/27
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