書評日記 第657冊
闇の考古学
ミヒャエル・エンデ
岩波書店
ISBN4-00-092057-X
誰かを動かそうと思うと大変だが、その人がやりたいことの先に自分がやってほしいものがあると、やって貰うのは比較的楽だ。当然、その人のモチベーション(動機)を保たないといけないし、自分のモチベーションも保たないといけない。相手とのやり取りは、自分の中で自問しているよりも時間的に遅く、更に、言葉のやり取りによる不都合が出て来ることもある。更に言えば、言いたいことが伝わらない、伝わってもうまく動いてくれない、動いたとしても間違っているような気がする、そんな気にもなるものだが、本当は、そういうのこそが傲慢の元だったりする。
このあたり、別に愁傷になっている訳ではなく、自分のやりたい事をやる、ということを前提にして行動する、という客観視と現状把握、そして揺るぎない現実、かつ動かせる現実、というものを実感しているからでもある。
それらは、ゆっくりではあるが着実に動き、着実ではあるが、苛立つ程にゆっくりと進んでいく。この二面性を覚えておかないと、子供が目の前のおもちゃを放り投げるような幼稚さ(我慢の無さ、未来を創造/想像する力の欠如)に至る。
そんな訳で、マルチプロセスで動くのがいいことを実感している。

マルチプロセスで動く場合、面する相手によって顔を変えるのか?と以前は思っていたのであるが、そうでもない。マルチプロセスにより多層社会を行き来し、それぞれの憤懣を別の社会に持ち込まぬよう注意し、逆に発散しつつ、と思っていたのだが、そうでもない。
相手からの鏡としての自分、ではなく、同一の自分があり、それぞれの多層による面を多少演出する(過剰に演出する必要はない)だけで十分であり、それは齟齬を生み出すものではない。どれも同じ位置から発する。いわば、外から見れば中庸/中空でもあり、内から見れば確固たるモヤモヤがあると言える。そのモヤモヤを私は今、語ることはできないが。

さて、書評日記を再開すると決めたときに、それ以後、書評日記に書きたい本は何だろう?と考え始めている自分がいた。そして、高島平の図書館で、エンデの全集を見つけ「闇の考古学」と「遺産相続ゲーム」を借りてきた。この些か不純な動機で本を借り、そして3時間程度で読み下し、しばらく経った後、ここに書きつけている自己を思い返すと、それは比較的、正しい所業であり、人生を楽しむという一端を取り戻しつつあるのではないか、と思ったりする。そう、「人生を楽しむ」というのは、こういうことでもある。

「闇の考古学」は、エンデの父、エドガー・エンデの話でもある。しかし、インタビューの直前にエンデは妻を亡くし、その後、偶然にも父の話をする機会を得、4日間にわたるインタビューは、彼に再生の機会を与えたのかもしれない。
聞き手のクリッヒバウムは、エンデの本をざっとしか読んでいない。だから、主として画家であるエドガー・エンデのことを聞くことになるのが、実は、父から子に受け継がれた精神と世界観、子であるミヒャエルから見た父の姿、かつミヒャエル自身が構築する精神的な世界の話へと踏み込んでいく。
実は、当たり前なのだが、人は自分の知ることしか語ることができない。だから、ミヒャエルが語る父の姿は、彼の理解する父でもあり、彼が受け入れる父の実績でもある。それらは、過去知り得たことから遠く離れ、自分のことを語ることになる。それは、ミヒャエル・エンデが小説家だからかもしれないし、画家と小説家という組合せ、シュタイナーというバックグラウンドからかもしれない。

という文を30分弱で書き下す。文章修業みたいなものかな。
update: 2009/12/15
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