書評日記 第60冊
腹鼓記 井上ひさし
新潮文庫

 さて、「さて」という語は、先の文章とを切り離す役目をするために使う接続詞なので、このような使い方は間違いですが、「が」という接続詞は先の文章との反意の関係をあらわすものなので、このような語法はやや不思議に感じますが、昨今の日本語においては単につながりをあらわすために使われる語となっているのでので、決して誤用ではないです、というような「ない」と「です」を単につなげた簡略式の丁寧語が最近の文章には多おうござりましょうが、本気で敬語をお使いになるときは、某ファーストフードのマニュアルが随一とのことです。
 いらっしゃいませ、こちらでお読みになりますか? それとも、お持ち帰りでございますか?

 筒井康隆と犬猿の仲である井上ひさし著「ニホン語日記」を買って、開いたのが某ファーストフードの店内。爆笑はしなかったけれど、必然とも云える偶然性にほくそ笑む。
 しかし、なんでここのハンバーガーはまずいんだろうか。昼に喰っても夕方までにおいが残る。ちなみに米国の下水道が臭いのは、このためである・・・というのは「パタリロ」にあった言葉なので真相はさだかではない。

 というわけで(とかいうのも「誤法」であるが)、井上ひさしの「腹鼓記」(新潮文庫)を送る。先にも書いたが筒井康隆と井上ひさしは仲が悪いそうである。これは、筒井康隆本人がエッセーの中で言っているから間違い無い。確か、井上ひさしも、「筒井康隆が嫌いだ」と書いてあったような気がする。しかし、我々読者にとっては、そんなことは瑣末なこと。むしろ、事あるごとに双方を意識した文章をみて楽しむこともできるのである。なお、何故にこの二人の仲が悪いのかをご存じない諸君諸嬢に解説しておけば、井上ひさしが「日本語擁護派」で筒井康隆が「日本語破滅派」である。ま、どちらも「日本」の小説家であり、「日本」人の俺には読みやすい作家である。双方を読み、比較してみるのも一興であろう。俺にとっては、どっちもどっちなんだけど・・・。

 「腹鼓記」は、宮崎駿の映画の原作(?)でもある。題名はド忘れしてしまったので、ここには書けないが、「踊るポンポコリン」ではなかったのは確かだ。
 映画の方はちょっとセンチメンタルな話に仕上がっているけれども、こっちの方は全編これパロディである。「吉里吉里人」もそうだし「ドン松五郎の生活」もそうなのだが、井上ひさしの小説・戯曲はそういったおセンチなものとは、かけ離れている。幸いにして映画以前にこれを読みはしなかったので、映画と小説と別個のものとして楽しむことができたのであるが、小説を既に読んでいる人が映画を観たのでは、ちょっと辟易してしまったのではないかと思う。尤も、宮崎駿の「ナウシカ」も「紅の豚」も「おもいでぽろぽろ」も観ている俺にとっては、どっちが先でも同じであったろうが。
 井上ひさし、小説に対する取り組み方がひじょーに固い。ま、俺が云えた義理ではないのだが、もちょっとこう、ゆるゆるいかんものか、のう。「コメの話」・「続コメの話」と読んだのだがちょっとクド過ぎる。とかなんとか言って、ほとんど読んでいるのだけれど。彼は、もともとが放送作家であるので、戯曲が多いのが特徴。「國語元年」・「表裏源内蛙合戦」・「泣き虫なまいき石川啄木」なんてのはいいかもしれない。勿論、「吉里吉里人」は必見である。筒井康隆の「虚構船団」同様、その分厚さと言葉遊びに溺れてほしい。もっとも、大判のは重たいので(到底、電車で立ち読みというわけにはいかない)、それぞれ文庫が出ているので、それを買うといいだろう。

 今日はまことに書評らしい書評日記。
 だって、からくすぐられてこそばゆいんだもの。

update: 1996/07/30
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