書評日記 第95冊
ホーム・パーティ 干刈あがた
新潮文庫

 ラジオ・ドラマが好きでした。一番最初の出会いは、横田順弥の「横断歩道」です。「快男児 押川春浪」の回で紹介しましたが、彼は、はちゃはちゃSFの名手です。ま、今は、SF古典古典のような文献あさりに走っていますが、そのむちゃくちゃ加減、しつこい駄洒落、突飛な発想は、なかなかのものです。
 ラジオ・ドラマは、TVドラマと違って、声と音だけで構成されています。ただし、人の声を強調するために、あまり派手な効果音は使いません。曲の選択や、効果音の使い方、声の抑揚、それだけでドラマを形作らなくてはいけない。そういう意味では、「小説」を聞いている俺にとって、ラジオから流れるドラマは、まさしく、「小説」そのものなわけです。最近は、手間を惜しむのか、あまり凝った演出はしないようになったし、声優(?)も若い人ばかりであまり厚みがありませんが、当時はなかなかの豪華メンバーでありました。詳しくは忘れましたが、半村良原作の「女達は泥棒」といい、筒井康隆原作の「未来都市」といい、映画の吹き替えをやっている声優達が、そのままラジオ・ドラマの声優でありました。
 そんな中で、干刈あがた原作の「ウホッホ探検隊」を知りました。離婚した母親とその2人の息子の話。そういうこととは無縁の俺の生活の中に、ひとつの擬似体験をさせてくれた貴重なドラマでありました。

 「離婚」という言葉に敏感に反応するのは、俺が中学生の頃、母親が幾度と無くその言葉を口にしたからです。当時の俺にも、今の俺にも、彼女になにがそんな事を口走らせたのか、理由はわかりませんが、少なくとも、俺と弟のために(かどうかはわかりませんが)それは言葉だけで終わりました。ま、単純に口にしてみただけなのかもしれません。でもね、当時の俺は、ちょっと悩んだね。
 現在、2人は、晴れて老後というものに向かおうとしています。2人で、やたらに旅行をしています。なんかね、自分の両親を褒めるのは、反則だと思うけど、最近、やたらに仲がいい。はあ、なんともかんとも。

 さて、本日の一冊がずいぶん押されてしまいました。干刈あがた「ホーム・パーティ」です。この方、なんでこんなに「離婚」の話ばかりを書くのか、どうも理解しかねますが、少なくとも、「離婚」というものが、単に壊れていくものでなく、間違いなく新たな「出発点」である、ということを描いているところに、俺は安心します。
 とかく、「離婚」となると、彼と彼女とは全然無関係であるところの子供という存在が大きくなりすぎて、悲壮さばかりが目立つわけですが、それもひとつの方法ではないか、と思うのは、そもそも「結婚」というものを経験したことがない俺だからなのでしょうか。子供というものは確かに繊細で脆弱な部分があるかもしれません。しかし、子供だからこその柔軟さ、そして回復力の強さにより、きちんとした手続きを踏めば、彼、乃至、彼女は、解ってくれるのではないか、と思うのは、ちょっと楽観視しすぎでしょうか。
 ま、少なくとも、干刈あがたの小説はそういう雰囲気があります。もし(この「もし」が無ければいいのでしょうが)、そういう場面に出会うことがあったならば、もっと子供というものを、自分の子供というものを「信頼」して欲しい。言葉を使って話して欲しい。すべてを理解できなくても、なにかは理解できると思う。そんな感じを持たせてくれる小説を書くひとです。干刈あがたさんは。

update: 1996/09/09
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