書評日記 第184冊
人さまの迷惑 出久根達郎
講談社文庫

 ジャンクフードを食べに来たのだが、混んでいたので、駅前の「アールヌーボー」という喫茶店で本読み。
 読書なんて家でじっとしていても出来るという意見もあろうが、俺の場合はそうではない。
 大学時代にV7で読書というスタイルが確立してしまったのか、それとも部屋の汚さに辟易してしまうのか、どちらにしろ、こうやって喫茶店でコーヒーを飲みながら2時間ほどねばっているのが俺の性に合っている。

 話し掛けられる心配がない、という安心感が好みなのかもしれない。
 文字を追うのに疲れたら、ウエイトレスのお姉さんを眺めたり、向かいのテーブルのおじさんの話に耳を傾けたりする。煙草の匂いも嫌いな方ではない。ただ、目の前に流れてくる煙だけはうっとおしくてムっとすることもあるが。

 黒柳徹子の本を持ってくるはずだったのが、間違えて遠藤周作の「深い河」を持ってきてしまった。今は、これを読む気がしないのでパスして、出久根達郎の「人さまの迷惑」を読んでいる。

 2頁で一話となる程度のエッセー集。
 最近は、小説そのものよりも、対談集とかエッセー集に目が惹かれる。あと理系の知識欲を刺激するのか、岩波文庫の「相対性理論」も読んでいる。

 そう、貴女は俺の書評日記を読んで、俺のことを「魅力的」だと云う。
 果たして、どこがどのように「魅力的」なのか、聞いてみた気もするのだが、出久根達郎の「人さまの迷惑」を読んでなんとなく意味がわかった。

 この書評日記、本を題材にしつつ話を広げている。俺の日常体験の乏しさからか、主にインターネット上での出来事と、それにまつわる俺の感想を書いたものに仕上がっているわけだが、それは日記というタイトルは附いているけれども、人との会話を楽しむエッセーと同じ形式なのかもしれない。
 俺がエッセーを読む時に興味深く思うのは、作者の人格である。
 その人が何を考えているのか、何を感じたのか、何を目指しているのか。彼や彼女の生き方に興味があるわけだ。

 www日記は、作者と読者という彼我の関係ではないと思う。
 作者から読者への一方通行のメッセージではなくて、こうやって書いている人と一緒に何かを考えて行く。そういうものだと俺は思う。
 また、プロではないのだから文章力が無くていいというのは間違いだと思う。そもそも人は言葉を使って考えたり語ったりするのに、語るように書べき文章が書けないというのは、即ち、その人は伝達手段が乏しいと同時に、内部では何も考えていないのではないか。そう、俺は危惧してしまう。
 そういう人からは、「私は話をしたくありません。」と言っているように聞こえる。そう、俺は読者として拒否されているような気さえする。
 ま、事実、拒否されてしまうわけなのだが。

 出久根達郎は本を愛するがゆえに古本屋の主人になった。
 「本にキスをする」というフレーズが出てくるが、まさしく、俺も同じことをやる。
 本が好きだから、其処に書いてある文章が好きだから、作家になりたいという者がいても不思議ではないと思う。

update: 1997/01/04
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