書評日記 第405冊
冬の蜃気楼 山田太一
新潮文庫 ISBNISBN4-10-1018822-7

 「愛の」という冠詞が安売りされるほどに巷に蔓延る。それほど「愛」に飢えているのかといえばそうでもあるまい。『失楽園』が大ヒットを飛ばすように、括弧付きの真実の愛は物語の中でも現実の中でも容易に手に入れられるような響きを持ち始めている。または、容易に手に入れられないが故に誰もが求め、そして、誰もが求めることのできるほど理解され易いものとして、提示されている。
 こうなると「愛だろ、愛」と言った本木(だったと思う)や、「幸せってなんだっけ」と歌っていた明石家さんまの科白の方が、幾分ほんとうらしく見えるのは何故だろうか。
 
 キャッチフレーズが『撮影所を舞台に描く甘美で残酷な、時の物語』となっているのは、9時ドラマに共通な視聴率を確保するような恥ずかしげもない煽り文句なのだろうけど、『ふぞろいの林檎たち』を描いた山田太一にしては『冬の蜃気楼』はあまりにも平凡な感じがする。
 むろん、それは突飛ではない現実の中に突飛な出来事が視点によって演じられる虚構性を突くひとつの実験なのだろうけど、今の世の中は、ここに描かれているよりも突飛なような気がして、『冬の蜃気楼』に出てくる登場人物が中途半端に素直な人達(私の目から見れば)ばかりなので、拍子抜けがしてしまうのかもしれない。
 『ロアン・リンユウ』という中国映画を思い出して、出てくる少女の姿を比較させるのは酷かもしれない。だが、執拗なエゴイズムでもなく、無償の信頼でもなく、かといって、奪うほどの力強さもないこの小説は、阿佐ヶ谷駅から千葉駅までの1時間半の電車の道のりを埋めるに丁度良いものだった、と云うのは『冬の蜃気楼』にとって山田太一にとって、どういう評価をしていることになるのだろうか。

 たくさんの小説が生産され、たくさんのTVドラマが生産される。そんな中で、向田邦子が作る原作や、山田太一の作るドラマは、それなりに信用が置けるものなのだと思う。だが、「それなり」という形容詞が今の私にはおもしろくなく思い、時間潰しと時間の無駄との中間にある、娯楽としての時間を楽しむのに過不足ないものを提供しているのだと思えば、何も文句を言う必要もないのだろう。
 
 読了したあと、マリー・ローランサンの絵を見て、いわさきちひろを思い出し、彼女の交友関係と、恋と結婚と離婚と再婚を知り、絵本の挿し絵としての版画を知り、彼女自身がいる彼女の姿を知るようになると、比較するのは変な話だけれども、また、それもひとつの暮らし方なのだ、と納得するようになった自分を見出し、少しだけ驚く。

update: 1998/1/26
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