書評日記 第472冊
村上春樹、河合隼雄に会いにいく 河合隼雄、村上春樹
新潮文庫 ISBNISBN4-10-100145-6

 いわゆる対談なのだが、河合隼雄の云う「とてもむずかしいところ」を村上春樹が無意識に(本当は無自覚にと言いたい!)『ねじまき鳥クロニクル』で描いている、という科白が頻発するのは止して欲しいと思った。また、「ものすごく」という科白が頻繁に出てくる。
 村上春樹がなぜ『アンダーグラウンド』を書いたのか、という理由がこの本には書かれている。また、その続編が書かれているのか、ということも書かれている。その理由は十分に肯けるものであり、村上春樹がインタビューを中心としたノンフィクションを書かなければいけない訳は、個人・村上春樹の生き方において当然と思える。
 日本には作家がたくさんいる。世界にも作家はたくさんいるけれども、日本で売っている小説のほとんどは日本の作家である。10年前、文庫本コーナーで見も知りもしなかった作家が今、並んでいる。私が10年前には気付きもしなかった作家が並んでいる。私にとって村上春樹(ついでに村上龍も)の本は視野の外であった。だからなのかもしれないが、敢えて彼の初期の作品を読み、単行本を読み、対談等を読んでみると、彼の中に染み付いている「日本」が私には異様に思える。逆に言えば、私の中にある日本は、世間一般の「日本」とは随分かけ離れていたということなのである。
 かといって、現代アメリカ小説(フィッツジェラルドぐらいしか読まないけど)や村上龍の小説が「日本」を意識させないか、と言えばそうではなく、返って忌避するところの日本や、対するところのアメリカの匂いが疎ましく感じることが多い。
 それは、無国籍、とまでは言わないが、密教的な形で発展して来た日本SF小説に染まり、アシモフやディックの奇妙な翻訳文体にどっぷりと浸ってしまった私の読書遍歴に原因があるものと思われる。だから、あまり一般的とは言えないのだが、自然体として夢野久作や谷崎潤一郎や梶井基次郎、そして、夏目漱石や三島由紀夫に読み帰ることができる(最近、三島由紀夫の形式主義に飽きて来たけど)のは其れが理由なのであろう。

 にしても、村上春樹の本は日本を代表する作品になりつつあるのだと思う。渡辺淳一の本がなぜ出す毎にベストセラーになるのか解らないように、村上春樹の小説に染まったひとは、その潮流から抜けることはできない。私が筒井康隆から抜けることができないように…。
 ちなみに村上春樹はアメリカに行って生活し、そして日本に戻ってきている。それを当然のように戻ってきて(これを河合隼雄は肯定的に捉えている)日本で小説を書いている。それが「男流小説」の域を出ない理由であるのは明らかなのだが、それはそれで日本の文壇には不可欠な要素なのかもしれない。致し方が無いことなのだ。

update: 1999/02/02
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