書評日記 第514冊
笑う大天使 川原泉
白泉社文庫 ISBN4-592-88314-4

 先日、『メイプル戦記』を読んだ時は、個人である川原泉について言及してしまったが、『笑う大天使(ミカエル)』では素直に作品について考えてみようと思う。――川原泉自身が云うように気張らずに生きていこう、という実践である。
 
 実は『甲子園の空に笑え!』を先に読んでいるのだが、彼女のパロディの(素)質が微妙なバランスを持っていることに気が付いた。先にある少女漫画や典型的なストーリー漫画を踏まえて、その上でパロディとなる科白を紡ぎ出し、あくまで定型的である物語の筋に載せている。これは、一種の感傷癖に陥る少女漫画のスタイルを単純に嫌悪するのではなく、今まで培われてきた感動を寄せるための筋の上に新たに付け加える技巧を思わせる。たとえば、『銀のロマンティック…わはは』では、槇村さとるの『愛のアランフェス』と『白のファルーカ』と麻生いずみの『光の伝説』を踏まえて、その上に、スケートのストーリーがあって、何故か(というか当然なのだろう)感動を呼ぶ。つまり、それが川原泉の「人柄」なのだ、という言い方は他の漫画家を排他するようで嫌なのだが、川原泉が創る(また創っていこうとする)現実へのアプローチはそのような姿によって表される、ということだと思う。だから、カリスマ性を帯びる。
 『笑う大天使』では、猫を被った柚子と和音と文緒によって、少女誘拐&人身売買というちょっと重たい――が、ちっとも重たくはない――事件が解決される。これは、ひかわきょうこの『荒野の天使ども』を思わせるのだが、ミリアム・トッド(『荒野の天使ども』)も、ノリ子(『彼方から』)も、一定の少女像に則っていることには違いない。それは、大島弓子が描く『綿の国星』のちび猫がフリル付きのエプロンを付けた好奇心旺盛かつ活発な猫だとしても「少女」という像から逃れられないのと同じことである。つまり、女性作者自身が投影する主人公の少女は、なにがしかの「少女」を演じさせらざるを得ないのに対して、『笑う大天使』の三人の女子高生はストーリーの中で踊らされている対象から逃れていると思える。
 多分、頻発する作者の蘊蓄・閑話休題・呟きが三人の女子高生が物語に埋没するのを妨げている――良い意味でも悪い意味でも――のだと思う。これは、川原泉ならではの知識であろうし、博覧狂ならではの澁澤龍彦や荒俣宏やウンベルト・エーコと同じようなものであろう。ただ、それが技に溺れないのは、やはりストーリー漫画の最後に出てくるべきものが、きっちりと出てくる、ことにある。これが、川原泉を少女漫画家に止めている所以だと思う。

update: 1999/07/12
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