書評日記 第515冊
F 落第生 鷺沢萌
角川文庫 ISBN4-04-185304-4

裏表紙から
ポジティヴに生きることだけが、決して正しい生き方じゃない。後悔したって、前向きじゃなくたって、少しずつでも歩くことさえ止めなければ、大丈夫。
恋において、友情において、仕事において――。人生のなかで何かに「落第」してしまった女の子たちへ送る短編集。


扉から
1968年東京生まれ。上智大学外国語学部除籍。「川べりの道」で文学界新人賞を受賞しデビュー。「帰れぬ人びと」などで芥川賞候補、「ほんとうの夏」などで三島由紀夫賞候補となる。著書に『海の鳥・空の魚』(角川文庫)、『ハング・ルース』(河出書房新社)、『大統領のクリスマス・ツリー』(講談社)、『君はこの国をすきか』(新潮社)、『バイバイ』(角川書店)など。


 引用をしておくのは、鷺沢萌(さぎさわめぐむ)という作者の本を初めて読んだことと、備忘録のため。読みながら、常に山田詠美の文章と比較してしまうのは、鷺沢萌という名前に多少批判的であるためのような気がする。
 「Fは、成績のFで落第生を意味する」と解説で書かれているが、『F 落第生』で描かれているそれぞれの短編の主人公は決して落第生ではない。いわゆる「おちこぼれ」という言葉が、自分の能力と世間体にある能力考査とのすれ違いなのか、はたまた、ほんとうに能力がないのか、不安なまま「普通」を演じてしまうひとびと、という定義付けから言えば、『F 落第生』で描かれるそれぞれの女性は「おちこぼれ」にはあてはまらない。敢えて世間体に強く反発をするウーマンリブではない。しかし、自分自身の居場所をまったく失ってしまうほど愚かでも不安定でもない。
 実は最初の短編「シコちゃんの夏休み」で私は頓挫しかかった。私が男性であること、私が30歳であること、私が女性ではないこと、私が20歳前後ではないこと、が私を『F 落第生』の読者から排除しているのか、それとも今風の現代小説というものはこういう方向に向かっているのか、と無理矢理納得せざるを得ないほど、四苦八苦した。登場人物との感情移入の齟齬ではなくて、文体に問題があった。読むスピードがわずかだが早かったらしい。短編にして内容がぎっしり詰まっている、という感じはしなかった。どちらかと言えば、ちょっと典型とも思えるストーリーは、よく出来た魅力の薄い短編を思わせた。私はここで山田詠美の小説と比較し始めた。だが、鷺沢萌はそのような頑固な方向性を持つ文体を持っていない。長野まゆみのような童話でもなく、松浦理恵子や笙野頼子の持つ強烈な個性とも違う。むしろ、『F 落第生』の裏表紙に書いてある通り「ポジティヴ」ではないネガティヴのささやかな主張、というところだろうか。
 だから、むしろレディース漫画的にアウトローという強い語感なしに普通とは違った道を描く。普通とは違った道ではあるが十分に普通っぽい。だが、巷に溢れる普通っぽさが実のところは、平たく散らばってしまった偏差の広い集団のための孤独感、がひとつひとつの短編の中に収められるのである。
 ひょっとすれば、「落第生」でレッテル付けられた、または、「落第生」として自分をレッテル付けた、自分を回復しようとする〈自分探し〉なのだが、誰もが積極的な〈自分探し〉に付かれ始めた頃、結局のところは、堂々巡りをした後に同じ位置にいる(しかし、小説だから(?)報われる部分は十分に報われる)自分を見つけるのである。
 一種のパロディのようにも見える。ただし、使い古された新しく古い物語とはそのような体裁を求めるのかもしれない。

update: 1999/07/16
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