書評日記 第533冊
ライ麦畑でつかまえて J・D・サリンジャー
白水uブックス ISBN4-560-070510-2

 サリンジャーの小説は「フラニーとゾーイー」を先に読んでいる。「ライ麦畑―」のほうはあまりにも流行り過ぎたのでいままで避けていた。
 〈青春小説〉という定義は二つに分類させる。青春を謳歌する形で青春という時期を躍進する、と、悩める青春期という形で大人となって現実に追い回されてしまう頃には忘れ去られてしまう純真さ。青春時代を謳歌せよと一種の向こう見ずと学校という制度と未来への希望と、これらすべてを兼ね備えることはまれだろう。馬鹿に悩むか馬鹿に能天気か馬鹿に早熟してしまうか、いずれか一種類の人格を持つに至るのが普通だ。「ライ麦畑―」は「デミアン」に似ている。また、庄司薫の薫くんシリーズに似ている。私は「若きウェルテルの悩み」まで内省しているとは思わないが、それに似てるというひともいる。
 「ライ麦畑―」が世に出たときの評価が「クレイジー」だったのは、文学技巧でいうところの〈スキャット〉に評論家が馴れていなかったからだろう。「ハックルベリーフィンの冒険」を思わせる饒舌さを兼ね備えた一人語りは、読者に語り掛けることによる馴れ馴れしさ(=同世代を幻惑させる効果…としておく)と同時に疎外による嫌悪を生み出すこともある。ただ、学校を飛び出し流浪し戻って来るという一週間ちょっとの小説内時間の流れは、堅苦しいモラルに対してどのように向き合っていくのか、という誰もが持つ命題をこの小説は持ち、非常にアメリカらしい回答を出している。実は私にとって、どちらかといえば庄司薫の語る「薫くんシリーズ」に親しみを持てる。これは、スクールから出るという行動が即スクールを中心に動いている心的世界=サリンジャーの描くアメリカの姿とその解決方法と、日本の中にある保守に対する反感(そして従属)とは、別の場所から出発しているためかもしれない。ただし、どちらにしても、あるひとつの時期を通り過ぎ一定時間を経過してしまった私にとっては思考することによる未来への不安と期待の模擬は模擬にしかならない。もちろん、これが「ライ麦畑―」を読むときに弊害になることはない。だが、サリンジャーの意図する(と私が思うもの)とは違った形でしか伝わらない。
 さて、決して現実の投影ではない「ライ麦畑―」という小説を考えれば、アメリカ文学史に新しく現れた〈スキャット〉という姿を見ることになる。饒舌で表される言葉の乱射は決して思想の乱立を意味しない。また、明白な思想の姿をあらわさない。むしろ、言葉によって囲まれた中空の渦を示すことになる。物語の物語らねばならない所以を示しているともいえる。

update: 1999/10/24
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