書評日記 第535冊
魚籃観音記 筒井康隆
小説新潮

 小説新潮九九年十一月号に掲載。挿絵は黒鉄ヒロシ。
 
 先日、筒井康隆の朗読会に行ってきた。一生会わないでおこうと思った筒井康隆ではあったが、やはり観ておきたいと思い行った、らば、「わたしのグランパ」にサインまでして帰ってきた私であった。
 朗読は「魚籃観音記」の冒頭三分の一と「間接話法」であった。断筆宣言をして復筆するまで、芝居に専念していたわけだが、彼の持つ役者の才能、特に彼の持っている天性のものであろう声量・声質は、実に彼自身の小説のスタイルを朗読ないし演劇として表現するのに十分なものである、ことが初めて分かった。筒井康隆の率いる芝居を観たことがなかったので誰でも知っていることかもしれないが、自らが小説を書く時に、実際に小説として書き出される以前のスタイル・雰囲気・場面は、一度内的な声によって完成されていて、それをなぞるように沿うようにして小説として再生産している(だけ)ではないか、と思った。夏目房之介が「手塚治虫はどこにいる」で書いていたが、白い紙に一度絵を思い描いてそれをなぞるだけで漫画は描ける、ということと同じような気がする。だから、彼の創るものは短編が多いのかもしれない。書き上げながら思考を進めていく大江健三郎とは違って、書く以前に既に出来上がった想像上の骨子に従って短編を書くのであろう。だから、彼が長編を書く時は、何らかの〈実験〉という方法論が必要になる。時間を掛ける、幾日もの期間を掛ける必要があるものは、一定の時間が必須な〈実験〉だけなのであろう。
 で、「魚籃観音記」なのだが、朗読会での説明によれば永井荷風や芥川竜之介が書いたように猥本のルールとして性器描写では同じ書き方を二度繰り返さない、という古風な縛りを取り入れたそうである。いわゆる、黄表紙と同じである、そうだ。
 そして、朗読会の前半三分の一と、小説新潮に掲載された全編を読み比べると、如何に文字と声との違いが大きいのか、声の抑揚によって作られる饒舌さ&リズムと文字で作られるタイポグラフィとが違うのか、逆に「間接話法」の頃は同じであり得たのか、が分かる。
 ちなみに、「魚籃観音記」は筒井康隆初のエロ小説だそうだ。いままでのは、〈エログロ〉だから、違うのか、な。

update: 1999/10/25
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