書評日記 第548冊
ア・ルース・ボーイ 佐伯一麦
新潮文庫 ISBN4-10134211-3

 九一年に三島由紀夫賞を受賞。

 読み始めて一番最初に気付くのは〈現在形〉である。「る。」「る。」「る。」で終わる文末を続けて読まされる気分はおもしろい純文学というよりも、奇妙な受賞作――事実、三島由紀夫賞を受賞してはいるのだけれど――を読まされている気分になる。だが、ある程度読み進めるとその執拗な〈現在形〉は一定の意味/意図を持って書かれていることが分かる。つまり、主人公・鮮(あきら)の持つ「過去」を際立たせるための〈現在形〉、同時に、「現在」を立ちあがらせるための〈過去形〉ということが分かってくる。そうなると奇妙な文末は気にならなくなり、むしろ、過去=高校の頃を思い出す鮮の現在と、進学校I高校を中退して職安へと赴く現在形が分かりやすく心地よく思えてくるから不思議だ。
 ストーリーとしては原田宗典の『十九、二十』に似ている。進学路線からドロップアウトする、彼女と一緒に暮らす、他の男の子を孕んでいる――中上健次のように「孕む」という生々しい言葉は出てこないが――らしい幹という彼女、それらが比較的あっさりと進んで行くのは作者・佐伯一麦の私小説的な正確を反映しているのか、最近のJポップ小説のように何食わぬ顔で進んで行く。ただし、何も起こらないわけではない。極端な話ではないが、現実的すぎるわけでもない。進学校を中退という身からさまざまな職をあたるが駄目、最後にひょんなところから電気工事師のアルバイトの身となる。
 
 分量としては一八〇ページなのだから、〈短編〉と言えるだろう。だが、高校を中退してあと、幹が去って行く、鮮が自立していく、という姿は十分長編に足る内容を持っている。ともすれば非常に平易でありきたりな文体を重ねていくだけなのだが、作者から主人公・鮮への写像、私小説的な自分の経験を映し出す投射のみの作品に陥ることなく、無事に成長を遂げる鮮の姿は青春小説としての王道でありイコール教養小説(ビルディンクスロマン)の名にふさわしい。なるほど、映画の題材としてもふさわしく、共感を得やすい――それは在り来たりではないみずからのドロップアウトからの脱出の道――題材であろう。

 「鮮」という名は大江健三郎の鷹四に通じるものがある。「鮮」という名は、まったくあり得ない名では無いにしろ少し珍しい名だろう。これが冒頭に出てくる同時に最後にも出てくる母親との齟齬、また、脱皮するべきトラウマとしての性的な幼児体験、への非現実性=物語性(?)を意図して模しているのかさだかではない。だが、秀逸な作品であることは確かなことだ。

update: 2000/03/06
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