書評日記 第570冊
シリアル・ママ
アミューズ・ビデオ

 土曜日は何時になく緊張して銀座へ。ISIZEの書評子の親睦会だった。オフ会で名刺交換をしたのは初めて。それぞれ色々な職業から書評を寄稿している人達。本を読み何かを書くだけに年齢層はそこそこ落ち着いた人達だった。当方ちょっと品が無くてすまんス。
 
 日記界なるものに憧れてホームページで書評日記を書き出して丸4年が過ぎている。最初の馬鹿に脳天気な自分も馬鹿に深刻ぶった自分も多幸症や分裂症の自分も過去のものにせずに今の私を造っている……としておく。尻尾を掴まれれば後ろ暗い部分も幾つかある。それが普通なのか異常なのか懺悔する気はないのでどちらとも決めかねるのだが、最早医者にはならないであろう今の自分がいる。夢とは現状に合わせてコロコロと変えるものかもしれない。内実、幸も不幸も振り返った時に悪夢を見ないだけの安らかさがあれば十分と云える。だから、虚業に憧れるのだろう。散々笑われても良くちょっとだけ尊敬されたい、と書いたのは井上ひさしだ。漫画的な似顔絵を山藤章二が変えていったのは明らかことである。権力とは別の処にしか価値はないと思う。となれば町田康の再度芥川賞をどう見るか。
 
 「アフリカの夜」と「コンセント」と「草枕」と「神智学」を買う。所謂新境地と呼ばれる「アフリカの夜」は一気に読み終わった。感想は明日に廻すとして、次は「コンセント」か「草枕」か。「共同幻想論」に通じるような「アフリカの夜」はユングの共時性を思わせる。再度、神秘の世界は私に何かを見せるのか。意識的に見ることが出来るのか。ミームの科学というのも本屋で見た。
 
 「シリアル・ママ」は連続殺人者(シリアル・キラー)のママ。ホラー映画にせよ社会派映画にせよ重く暗く描かれる殺人者を〈ママ〉という明るい存在に引っ張って来るワンポイント映画である。主役のママが往年の大女優キャスリーン・ターナーというはまり役というのがミソ……と石川三千花は云う。
 全編コメディーというわけではないのがこの映画の不思議な部分だろう。自分の娘を振った男性を火掻き棒で突き刺すシーンは結構グロイ。車で轢き殺すシーンもチキンで殴り倒すシーンも血飛沫が出る。しかもスプラッター映画のようにドバドバと出るのではなくて、ちびッと出るのが生々しい。椿三十郎のように袈裟懸けに切られた肩から血飛沫が飛ぶのとはまた違う。非常にリアルな部分がとっと笑えないという感じがする。一応、善良なママが周りの無頓着な人達(ゴミを捨てる婦人とか、シートベルトを占めない若者とか)に「キれる」というのがストーリーの中心なのだが、ママはスプラッター映画を密かに見ているしプライベートでは殺人ものの本を読んだり死刑囚にファンレターを出したりしている。そのあたり、単純な善良ママがキれる、とは違った意図があるような気がする……のだが、あまり突っ込んで考えても意味がないような気がしないでもない。
 ハサミの指紋を取られたり目撃者がいたりするのだが、シリアル・ママはのらりくらりと陪審員に訴えかけて裁判に勝ち無罪となる。悪のヒーローが重く描かれることへのパロディか、明朗なアンチヒーローという試みか、善良さに潜む恐ろしさか、殺人者を裁く裁判の難しさか、と主題を思いついてみるのだが詮無いことだ。アミューズメントとして割り切り主演女優の貼り付いた笑顔とむッとしたしかめっ面に古き良き時代の映画と最近のドぎつい現実主義の映画の落差と混然を嗅ぎ取ればそれはそれで面白いかな、という具合である。

update: 2000/07/16
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