書評日記 第571冊
草枕 夏目漱石
新潮文庫 ISBN4-10-101009-9

 ネットワーク試験を受けようと思って試験勉強を続ける。司法試験や大学受験ほどではないが試験には違いない。知的好奇心の活性化なのか再び本を読む速度があがってきた。ベーシック手順やHLCD手順を覚えられるのは興味があるからだろう。それとも簡単だからか。原子表を大学時代に覚えなかった。暗記は弱い。だが、毎日何かをやっていると何かが積み上がっていく快感がある。書評日記もとりあえず二週間連続で書いている。が、小説は一向に進まず。そう、「草枕」を模写して「公家の女」の書き直しを狙うべきか。
 
 裏に、自然派や西欧文学の現実主義への批判をこめて、その対局に位置する東洋趣味を高唱した、とある。そのためか夏目漱石の小説の中で一番面白いと私は思う。蓮實重彦の「小説を遠く離れて」の中だったろうか、小説の真ん中から読み始める絵描きとそれを面白がる女の一説があった。小説の中に小説を描くということ、また小説の中で小説の読み方を披露すること、の例だったような気がする。冒頭の「智に働けば角が立つ―」の一文はこれが原典だとは知らず何か古典のパロディかと思って面白がっていた。所謂、江戸時代からの流れの浄瑠璃文学、臭い芝居としての歌舞伎、この部分から抜け出したとも抜け出さないとも云えない独自の流れが夏目漱石の文には含まれる。水村美苗は「続明暗」を書いたが漱石の「草枕」に通づるものは書かなかった。ストーリーとは異なる次元の戯れ句があり夏目漱石自身の主張とも描かれている絵描きの心理描写ともつかない花鳥風月すれすれの風景描写は何か一番の新しさすら感じさせる。その潮流は阿部和重の「アフリカの夜」に引き続いているのではないか、とも思う……のはいい過ぎなのか?どちらに?
 やはりというか結局というか小説の背景には日露戦争があり満州があるという軍国日本への批判というか消極的な否定が見えるのだが、それらの憂いが無ければ夏目漱石は「草枕」を書き得なかったのだろうか。巨匠であれ日本文学の祖であれ「書く」きっかけ「書き終える」きっかけは尤も日常的な理由に根差したものにあるのではなかろうか。そうなると多少なりとも大上段に振りかぶらないと受け入れられない小説や性描写を入れることで文学になるしかない小説や非日常な恋愛のバリエーションを描く小説とは、一線を画しているのだろう。文体・語彙・文学的な素養あるいは体系配下にある文学者としての知識はウンベルト・エーコのように博学的に沼正三のように衒学的に文字と戯れるためには必須かもしれないが、そうかもしれないという同意を読者と共有するためには必ずしも必要とは云えまい。勿論、道具は揃えるに越したことはないフェティッシュに単語の中に溺れる快楽も必要なのだが。
 そういう意味では、最後に見せる女の表情に強引に何かを見いだす画家の姿のラストは、カート・ヴォネガットのように付け足しの域を出なくて十分と云える。

update: 2000/07/19
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