書評日記 第583冊
歌うクジラ ロバート・シーゲル
創元推理文庫 ISBN4-488-58601-5

 クジラというタイトルで思い出すのは大原まり子の「銀河ネットワークで歌うクジラ」と野坂昭如の「潜水艦に恋をした鯨」だ。クジラという生き物がアイザック・アシモフの書く数学を得意とする哲学的な鯨のように人智を超えたものであるならば、捕って喰ったり刺身にしたりカツにしたり煮物にしたりするのは非人間的な所業なのだが、生き物すべてに対する郷愁的な賛歌とあらゆる生物に備わっている弱肉強食と食物連鎖と利己的遺伝子を考慮するならば、調査捕鯨も鯨による環境破壊もマッコウクジラが奏でる交響曲もイルカの持つヒーリングも同一のラインで考えることは不可能で情報伝達の円錐(あるいは光の円錐)の外と内にある違いを常に思い知らされるだけになる。つまりは牛を可愛がるように牛を喰い鯨を愛でるように鯨を喰い猫を愛するように猫を喰う(私自身は猫は願い下げだけど、なぜか?)同族としての人間を喰う、あるいは、単なる異常嗜好、ひょっとすると精神障害、幼児体験、または下劣な下等民族に対する睥睨、共同幻想、同時にヤプーとしてのマゾヒズム、それらのものがひとつの人間の中に収まってはいない、ことなのである。猫が会社の前を歩いていて彼(あるいは彼女)が私よりも優雅な人生を送っていて人類よりも進化した形で地球の上に生きているか否か、その答えはフィクションとしての小説の中にしかない。だが、将来的にほんとうに猫やイルカや鯨が喋り出した――彼らの思想を言葉に変換することは可能か。これはイコール脳波を言語化することが可能か。また、言語化したところには本来の〈意味〉は付随してくるのか。シニフィアン・シニフィエの問題ともいえる――時に、彼らによって責められた人はすべからく反省(人が人を諭すように)するのか否か。
 
 と、いう考え方は随分逸脱しているだろうが、あながち口先だけのものとはいえまい。さすがに「歌うクジラ」を読みながら鯨カツを食べるのは気が引けるだろう。食人をしながら恋愛小説を読めるかといえば……なんとなく読めそうだから不思議だ。ひねた見方をしてしまえば、この主人公のクジラ、決して善人ではない。幼いクジラが孤独の旅に出て捕鯨船にであったり仲間を助けたり最後に白鯨――メルヴィルの白鯨。自覚して書かれている――が捕鯨船を道連れにするシーンに至るという経緯は少年(としておく)の成長譚そのままである。作者・ロバート・シーゲルがクジラの視点で小説を書くことにのめり込んでいるのだが、人間との関係がいまひとつ表層的なのは、知性あるクジラという生物に固執してしまったからだろうか。争いが未知の場所から発生するイコール人間が銛を打つという別世界からの恐怖に起源を持たせているために、一種の悪魔に対抗する魔法使いの少年たちという設定に似ていなくもない。あるいは受け入れるかあるいは受け入れないかという絶対的な基準を持つ西洋的な習慣に基づいているようにもみえる。
 
 と、云いつつも二日続けて読み、読み終わっている。久し振りのファンタジー小説。一方では久し振りのフィリップ・K・ディック。

update: 2000/08/24
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