書評日記 第593冊
猫と庄造とふたりの女 谷崎潤一郎
新潮文庫

 四年間連れ添った相棒が危機に瀕している。電源部分がおかしくなったのかアダプタから充電が出来ない。中にあるのは企業秘密ではなく私の補助脳。小説の断片が散りばめられたままになっているはずだ。ノートブックの場合、電源部分はマザーボードと一体化しているらしく修理に十数万円掛かることになる。二年前に同じ症状で入院した時には幸いにも掃除をしたら直ったということであった。今回はどうなのだろう。アダプタの差し込み口に息を吹きかけると文字通り息を吹き返す。バッテリーの中の最後の一滴が無くなった時この ThinkPad 535 は寿命を終えるのか。それとも金が掛かっても修理に出すか、迷う。
 重さは一・五キロと今となっては重い部類に入るのだろうがB5タイプの携帯の良さは捨て難いものがある。CPU 125 だったか 133 だったか忘れてしまったが、エディタで書いている限りこのマシンで不満はないし、時には VC を使ってコンパイルすら行う。WorkPad との同期もこのノートで行うし、アダプタを二つバッテリーを三つ買った投資は今だ回収に至っていない。何よりもこの補助脳を使って小説を書いていない……、となんという奇跡だろうかそれとも単純なシンクロニシティ! たった今、タスクバーにバッテリー充電を知らせるアイコンが点灯した。労わるべきは心無き機械なのか。それとも愛着を超えたモノへの信心であろうか。

 河合隼雄著『猫だましい』からの一次参考書。リリーという猫を巡って親離れしない庄造と別れた妻、後妻、庄造の母親が絡む話である。猫への無報酬な愛情、愛玩動物である猫と独立した猫の姿を庄造は同時に受け入れる。満面顔を崩して愛情を注ぐのは猫である。不満を口に出さずなんとはなしに毅然と同時に甘えて来る猫の行為は男が女に対すると其れとは微妙にずれる。ひと悶着あれば男と女は対等である。夫の立場・妻の立場という夫婦でありつつもずかずかと踏み込む自分の心への垣根。それとはみ出した欲望が相手を喰い尽くし始める。猫とは明らかに異なる。だからこそ無常の相好を愛玩動物である猫に注ぎ猫がただ在るだけに身悶えする。それは妄想とか暗喩とか、猫=女の媚態あるいはしなやかさ又はしたたかさに男は己の懐の広さを過信するのである。
 と、そのような分析は「猫と庄造と―」には不要で、一種の風刺画の域を飛び出ないように注意が払ってある。猫を前妻に渡してしまい再び庄造がリリーを恋しがって前妻の留守中に猫に会いに行ったところで、リリーは古い主人である庄造には面倒くさそうな欠伸をする。リリーが大切に飼われていることを庄造は確認する。そういうところで「猫と庄造と―」は終わってしまい、実にあっけない。それほどひと悶着ある修羅場(クライマックス)をこの小説は持たない。だから詰まらない、のではない。反って猫への耽溺の仕方がリアルで尋常ではない部分に素直な共感を覚える。猫という共通因子が作者である谷崎潤一郎と読者である私を結んでいるのか、それとも庄造の扱う猫の姿と私の持つ猫へのイメージを結び付けることを容易にしているのか。
 河合隼雄のマザーコンプレックスの分析は多少勇み足かな、とも思う。

update: 2000/09/26
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