書評日記 第649冊
家守綺譚
梨木香歩
新潮社
ISBN4-10-429903-0
家守綺譚

 梨木香歩の本は、長野まゆみ同様に少しずつ大切に読み進めている。
 最初に読んだのは「からくりからくさ」。渋谷紀伊国屋のPOPに惹かれて読んだのが正解であった。モノを見つめ続けるのが非常にうまい人で、物語を動かしていくというよりも、その場にある風景を写生するように文章に映し出していくという形のうまい人である。
 
 『家守綺譚』は「ほんの百年と少し前の物語」なのだが、あまり前という感じはしない。たくさんの章があり、一遍一遍がちょっと古めの懐かしげなモノを対象に話を進めているのだが、京極夏彦ばりに昭和初期という感じもしないし、平野啓一郎のような古典を追及した形ではない。まあ、最初のサルスベリだけは、そんな雰囲気かな、という具合なのだが、著者梨木香歩は途中で諦めてしまったのか、そんな昭和初期の文体を捨て去って、元の文体へと戻っていってしまう。
 話としては夢物語に近い白昼夢のような話になる。主人公が高堂という故人となった友人宅を預かるなかで、いろいろな幻想に巻き込まれるという話だ。最初の章では、サルスベリをなぜているうちに、サルスベリに恋をされてしまう。哀しい幻聴が聞こえ悩んでいるところへ高堂のアドバイスは、君の小説を読み聞かせればよかろう、というものだった。主人公の私は、サルスベリに自作の小説を読み聞かせる。それで偏執的な恋は収まってくる。
 なんというか杉浦日向子の『百物語』に近いような気がする。いまは隠居してしまった杉浦日向子であるが、飄々とした形で描かれる恐怖というか現実味のない怖さというものは、ホラー小説とは違って、どこか昔話を聞いているときのような面白げを感じる。ただし、何も古めかしい江戸言葉に陥ることなく、会話は現代風だ。『家守綺譚』もそういう雰囲気がある。最初の3篇ぐらいは、擬似っぽい努力の跡みたいなのが見られるのだが、それを過ぎると諦めたのか、もともとそういう積りであったのか、素直な現代文へと戻る。戻っても小説の世界は百年程前なのだが、現実に隣で起きているような雰囲気で話は語られる。鉄筋コンクリートのビルは出てこないが、ちょっと下町の奥にある平屋の家、という感じがしてくる。

 そうそう、小説の中で出てくる隣のおばさんが河童の抜け殻を見て、それとひと目であてる訳だが、ああ、そうだよねやっぱり、という地があり、少しだけ主人公が浮世離れしているように見える。本当は、主人公のほうが正気で、高堂を含めて周りの人達が浮世離れしているような気もするのだが、そういう幻想とも幻聴ともとれる出来事を受け入れたり騙されたりしているうちに、ふと主人公は憧れの幻想の真っ只中に達してしまう。憧れてはみたものの、知れば当たり前だったかのような事実(とはいえ幻想)に対して、高堂の云う「行ってみれば何ということはなかtったろう。」という言葉に集約される感じで、落ちをみる。
 まあ、そんな物語だし、そんなものだろう。
update: 2005/03/01
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