書評日記 第650冊
二十歳のあとさき
出久根達郎
講談社文庫
ISBN4-06-274959-9
ルー=ガルー
 青春時代は懐かしむものであって、当時を以って青春真っ只中という訳にはいかない。『ショージ君の青春期』のような暗い過去もあれば、『十九、二十』のような訳の分からないことに巻き込まれる青春もある。ハイファイセットや松任谷由実が歌うような青春は、かつて青春時代を過ごしたものが振り返るための幻想であったりする……というのを何度も考えて来た。今36歳になり、過去を振り返り嫌な気持ちになることも少なくなった。いま振り返るための高校時代の思い出は少ない。アルバムにある幾つかの写真のように、色褪せてしまったこと自体に懐かしさを感じるぐらいか。忘れたなぁ、と。
 
 『二十歳のあとさき』は著者出久根達郎の自叙伝になる。古書店に住み込みで働き、店員同士で「書栄会」という勉強会を開く。勉強会とはいえ出久根達郎自身が云うように、わいわい騒いで結局何を為すわけでもなかった、という具合の結末である。しかし、何もなさずに何かをしながら過ごすという青春時代の過ごし方は、誰にでもある同じ具合に必要な時期ではなかったか、と後にして思うことができる。書に篤いがウブな三ちゃん、対抗馬の新吉郎、未亡人と結婚してしまう福田君など、出久根達郎を含む書栄会の七人が繰り広げる事件は、他の小説に描かれるほど派手ではないけれど、十分に波乱万丈かつリアルである(自叙伝だから当たり前だけど)。
 人と人とがぶつかって口喧嘩もするけど、何故か次の会合には七人が集まってくる。そういう仲間は、同時代的に仲間から抜けること自体が何処か非現実であるかのように思え、足掻く場として再び仲間として集まったりする。河合隼雄が言うならば「蛹」の時期が青春時代にあたる。心のなかのわだかまりは、何とも云えない葛藤から出てくる癇症であったり、他人を批判してみたり、自分を大きく見せようと必死になったりするものだが、ひとつ大人になったとき、その不自然さがさらりと消えて、何処かの場所へと落ち着いてくるものだ。それを「大人の分別」というか「諦め」というか、未だ私は決めかねているのだが、少なくとも思春期/青春期に起こる暴れる心というものは、きちんと通過儀礼を行ってこなければ、船着場を失った難破船のように、目の前に発生する出来事に対してふらふらと押し流されてしまうことが多いような気がする。
 とはいえ、青春時代は懐かしむもので、いま体験しているという現在形があるものではない。だから、振り返ってみて何処か妙な過ごし方をした恥ずかしい時期があれば、それはそれでよいのではなかったか、と認めるのでよかろう。そこは、恥部でありつつも、確かに自分の通った道筋であるのだから、否定するよりも苦笑しつつも緩やかに受け止めるほうが、大人というものだろう。

 …というほど、大人でもないのだが、ぶりたい年頃なのだ。少なくともいまは。
update: 2005/03/02
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