書評日記 第651冊
母なる夜
カート・ヴォネガット・ジュニア
早川文庫
ISBN4-15-010700-9
 少し仕事のスタンスを考え直してみる。ソフトウェア開発は創造性が含まれていて楽しい。ある意味、知的遊戯的なところもあり、仕事をするということ=仕事に対する生き甲斐を持つということ=長期間に渡って自分を満足させることができる、という流れでそれでもいいかもしれないと日常に流されてもみるのだが……しかし、考え過ぎは身体に毒ということだろう、という言葉(というか意味付け)を大江健三郎から引き出してみる。
 子供が生まれたのと、本棚を整理しなくちゃならない、というのは関連性があるようでいて私には関連性がある。4畳の間に積みあがっていた本をどんどんと整理し(あるいはされ)、本棚に綺麗に分類されてしまい、現在は、新刊本を買うよりも古い本を引っ張り出して読む、という再読に努めている。というのも、過剰に情報を溜め込まれている自分、あるいは溜め込んでいる自分という姿と、現実にここで仕事をしている自分(あるいは自分の立場)の差異に、辟易し始めている。いや、元々向いていないのではないか(何に対していという具体例は別として)、という疑問も湧き出て、逃亡と自己完結そして自己実現という確たるべき目標を築き、あるいは築き上げようとし、あるいは築きあげようとする振りをしたり願望を持ったりする中で、場と行為と立場で悩んだりする。あと年齢も加えて。
 
 と、新聞だったか「読書セラピー」という言葉を見つけた。〈セラピー〉という言葉に惹かれてしまうほど、日常生活と内面との乖離が激しくなっているのか、いや日常生活を二分する仕事場と家庭の場(私生活?)に対する社会性=仕事場における社交性その他もろもろが喰い違いつつあるのだろう。茶色くなった紙をめくって、かつての頃を思い出す。つーか、『母なる夜』の内容はさっぱり忘れていた。
 
 アメリカ人の主人公は戦時ドイツでアナウンサーとして働く。と同時にアメリカのために暗号を伝える。ニュースを読むときの声の調子や咳や区切りでドイツの内情をラジオを通じて伝える。主人公は暗号の内容は知らせれていない優秀なスパイだ。
 戦後から話は始まるのだが、ドイツのために戦争の鼓舞をしていた人格とアメリカのために暗号で情報を流していた人格に苦しめられる。ただ、苦しめられる、という心情が描かれるわけではないのはヴォネガットのユーモアなのだが、さまざまな事件が彼に関わってくることで、ドイツ=ナチ=アウシュビッツに加担することで戦争を生き延び、だからこそ暗号を流し続けることができた矛盾と分裂がスパイの心情にある。
 ヴォネガットの本が面白いのは、登場人物の交錯の仕方だと思う。物語の手法としては「伏線」という形で時間の流れ=読書の流れを折り返す楽しみにあたるわけだが、このあたりが巧妙(という言い方も不味いが)、ある意味で人生においての唐突さと同じぐらい唐突であるところが腑に落ちるという感じがする。
 自分の居所、してきたこと、決着の仕方、物事の捉え方、それでいて「死んだらおしまい」という唯一の教訓が『母なる夜』あると思う、というのが小説何にある。……これが小説外への教訓であるか否かは読者のみが知る話なのだが、なぁ〜にそのあたりは小説を書くという現実と、小説を読むという現実が離れた時間である以上、未来は予想は付かないということなのだ、と簡単にいきたいものだ。
 ひとまず、再読の日々が私のひとつの現実。毎日会社に行くことがひとつの現実。家に帰り赤ん坊の相手をすることもひとつの現実。未来を思い描くこともひとつの現実、としたいところ。
update: 2005/07/19
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