書評日記 第652冊
ソラリスの陽のもとに
スタニワフ・レム
早川文庫
ISBN4-15-010237-6
 整理された本棚からひっぱり出してくるのは、古いSFと読み掛けの大江健三郎の「宙返り」。「宙返り」は、講談社文庫の上下二巻の分厚い本で、内容はそう、オウム真理教をベースを対照に捉えた宗教家を取り巻く環境(という言い方も妙だが)の話。物理的に重いのと昼休みにちまちま読むにも重いので、並行してSFも読んでいる。
 ヴォネガットをAmazonなんかで検索すると絶版とまではいかないのか手に入りづらくなっているらしい。SF関係に疎くなって数年が経つわけだが(もともと詳しいわけでもないのだが)、このテの本を再読するときに「容易に買い直せる」わけでもないのはちょっと残念だ。図書館で借りればいいのかな、やっぱり。
 『ソラリスの陽のもとに』は『虚数』を読んだあとに半分ぐらい再読した覚えがある。あいにくタルコフスキーの映画を見たこともなく、リメイク版も見たことがないので、水滴る海の情景(タルコフスキーならば必ず地下道と水が出てくるわけだから)を思い描くのは私自身の頭の中でしかない。というほど共有もできなくもないかな。惑星を覆う海の風景というのは、アシモフの鯨との通信の話とか、ネットワークで歌を歌う鯨の話とか、ピノキオとか、潜水艦に恋した鯨の話とか、いろいろある……鯨にシフトしてまっているが。
 一方で『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』を読み直していたりして、SF的な文章と純文学的な文章(とはいえ、現状では大江健三郎との対比だけなんだが)が錯綜し、文体は個人に宿るのか、個人が発する言語に沿って文体は形成されるのか、いやいや、そもそも現実化された文体が思考へとフィードバックするのではなかったか、と考えてみたりする。まあ、ディック、ヴォネガット、レム、大江健三郎なって順(あるいは順不同)に読んでいく(あるいは再読していく)と個性の表現対象物=文章なんてものは、極端な広がりを持つように見えるかもしれない。
 個性化といえば、数年前から本棚に積読状態なユングの転移について書かれた『転移と心理学』があるが(読んでいないので、個性化と関わると分かるのは帯のみ〈見ている〉からだ)、これは『宙返り』と同時に読むのはちょっと憚れるので、読了後にする予定。
 
 『ソラリスの─』なのだが、未知との生物とのコンタクト、というよりもコンタクトできないというのが筋な話。未知との生物とのコンタクトの話は、まさしくカール・セーガン著『コンタクト』なんていう本もあったりして、アシモフの数学を解する鯨の話のように、未知なる生物とコミュニケーションを取りそれに対して人類は、という話になることが多い(というか、そういう話の進め方じゃないと話にならないので)のだが、『ソラリス─』の場合、徹頭徹尾、終始一貫、三寒四温、七転び八起き、一歩進んで二歩下がるして、コミュニケーションは取れない、という結論に至るまでが描かれる。いや、正確には、コミュニケーションが取れるという幻想(あるいは願望)が続く上で、最終的にそれが幻想であった=現実としては無理だったという結論に至る(人類の理解の上ではという注意書を以ってして)、という話。
 まあ、そういうコミュニケーション不全、というところでは、中島梓著『コミュニケーション不全症候群』を思い出したり、擦れ違いという点では、『自閉症だった私へ』や「クオリア」なんかを思い出したりするのだが、SFというのは便利なもので(というか小説というものが便利なのか?)、現実においての不安なり想定なりを、小説内に現実化させて、小説として立脚させるという二重の防壁を作ることによって、読者において(特定の読者においてはと云う限定をつけておくが)現実を悲観化させないという防御策が取れる、という利点がある。
 が、当然のことながら例外は何処にでもあるわけで、小説の派生を小説に描くような『虚数』もあり、バビロンの書もあるわけだから、(読者としての)面白さと(書き手としての)面白みに身を投じてみるのも一興かもしれない、とかなんとか。
update: 2005/07/20
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