書評日記 第653冊
宙返り(上)
大江健三郎
講談社文庫
ISBN4-06-273465-6
 転職するちょっと前の3月からカウンセリングを受けている。当時、37歳になり、自分の立ち位置に疑問を持ち、それが徐々に苛立ちとなり、家庭(とは言え、当時は華帆が生まれる前だから2人なのだが)において感情が爆発する、という鬱屈した状況に陥ってしまった。あいにく、誰かに相談するという術(話術という意味も含めて)を持たずに過ごし、内面により感情的な処理を思考的な処理に置き換えて解決した(かのようにみえる)きた訳だが、それは表面的な問題でしかなかったという訳だ。それは、考え過ぎるという事実と、考えることによってしか自分を解決できないという信条によって支えられてきた感がある訳だが、ひょっとしてそれは「信仰」に近いのではないか、と思ったりもしている。
 平行してヴォネガット著『猫のゆりかご』を読んでいたのは無意識下からの欲求か、図らずも宗教を主題とした本を手に取ったのは、そういう現状からの〈救い〉を求めてのことかもしれない。ただし、ここ半年ほどのカウンセリングの経過を思い返せば、会社での生活と私生活とその他諸々の欲求との折り合いが付かぬままではあるものの、性急な解決を求めるのも無理であり、あるところで解決を求めていない自分もあり、それを含めての〈緩やかな〉人生が必要なのか、と感じてみたりもするのだ。「感じてみたり」と他人行儀に書くのは、いまだ立場を決めきれぬ自分への苛立ちと、不安定さがあることによる不安、そこから脱することによる安定感を想像(あるいは夢想)する自分という形でしかないためだ。
 それは、自閉症的な症状であったり、分裂症の真似事であったり、己の能力を正当に理解されないという苦悩の振りであったり、拝金主義的な願望と株投資を中心とする資本社会への移行(のような面)などなどと、型にはまる安定感とそれに対する嫌悪との心の揺れに晒されているということになる。あるところで〈情報〉への離反と〈情報〉への愛着(皮肉的な愛撫)に上下する。
 
 『宙返り』は、大江健三郎が『燃え上がる緑の木』が最後の小説になる、という宣言の後に書かれた、最初の小説になる(確か)。小説家という職業を終えるにあたり隠居を宣言した後に、やはり小説を中心とした人生に舞い戻るというのは、大江健三郎にとっても「宙返り」でもあるのか?と当時は思ったものだ。
 『宙返り』では、パトロン(師匠)とガイド(案内人)、ダンサー(踊り人)という特殊な用語で人々が表される。一種、鷹四という人名を捻り出し、人名と離反する形で小説内の現実を支えようとする大江健三郎の癖(あるいは特徴)なのだが、ひとたび宗教団体を扱う場合には、このような役割名が非常に生きてくる。というのも、人は特定の社会において舞台の役者を担う場合もあるのだが、その人を中心とした場合には役割に縛られる必要はない。しかし、人が社会と接する際には他人への一面性を見せることにより役割の配分がなされる場合がある。そういう形で、小説内の登場人物としての役割と、宗教団体を構築する上での役割、かつ信仰という形式を形作る場合に必須となる役割、その三重性の意味を以ってしてパトロン(師匠)という呼び名が与えられている。と私は想像する。
 はたして、オウム真理教との緩やかな比較もなされ、宗教家として、むしろ先導役として為すべきであった「宙返り」という急進派による賛辞を避け、そしてその後の復旧という形で10年後に再び信者を集めるという経緯が上巻に流れる(なにも上下で話が分かれているわけではないのだが)。
 と、もうひとつの比較としての「燃え上がる緑の木」の会である四国に本拠を移すのが下巻の始まりになるわけだが、描かれる活動の様子と、集まる人々の引き出しとしての過去は、やや小説的と云えなくもないが、終着駅の次の駅という形を取らざるを得なかった経験の凝縮という形での小説という回答ということなのだろう。
 と、ひとまず。
update: 2005/07/22
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