書評日記 第655冊
自閉症だったわたしへIII
ドナ・ウィリアムズ
新潮文庫
ISBN4-10-215613-5
 今月の頭だったか、IIとIIIを立て続けに読んだ。転職を機会に、日常生活の中でどう人と折り合っていくのか、に悩み続けていたのだが、それを「自閉症」という言葉に結び付けたくなかったので、Iを読んだ後は手を出すのが躊躇われていた。不謹慎だが「〜症」に憧れたことがある。ある不具を抱え込むことによって、人とは違った前提を持ち、人に対しての劣等感を初期からの劣勢とすり替え、場合によれば優越感を引き出すために「〜症」に耐える(あるいは対峙する)という振りをすることによって心の安定を図ろうとしていたわけだ。当然の如く(?)それは自らへの詐称でしかなく失敗に終わる。あるいは、終わったかに見える。いかに生きるか、いかに生きてきたかということを重視し、未だ「前のめりに倒れる」という姿勢に憧れることもあり、そういう自分と訣別したいような気もしている。
 だが、『自閉症だった〜』の三巻(続きは書かれるようだ)を読み終えたとき、負債としての自閉症ではなく、自らの特性としての自閉症を意識するドナ・ウィリアムズの姿をみていると、人生においてのマイナス要素でもなくプラス要素でもなく、ということがよく解る。マイナスでもプラスでもないというのは非常に難しい。あるがままの自分をあるがままに受け入れるという態度は、ひょっとして人真似をして自動運転をするキャラクタを持つ自閉症だった(という過去形なのか?)ドナだから達成しえる大きな壁なのかもしれない。というのも、人は社会に接する限り常に多面性であり続け、会社では会社なりの一面を見せ、とあるグループではグループなりの一面を見せる。学歴社会という言葉があるように、自分の評価は、他人の評価の移し変えでもあり、その表裏一体のところで外面と内面の心情を見知らぬうちに行き来するのが普通であったりする。だから、その壁は極めて低いのが普通だ。
 ただ、それぞれの社会(人が属するグループという意味で)で多面性を維持し始め、一方での評価と感情が、一方での評価と感情に直接は影響を及ぼさないこと、を知るのは非常に難しい(と私は思う)。これは、一時期流行となった「自分探し」のテーマでもあり、いじめによる自殺者が存在するということが根拠でもある。それを病気としてのコミュニケーション不全と云ったり、自閉症として認定することも認知としては必要なことなのかもしれないが、おそらく平均的なという言葉は、社会の縁があればこそ平均が生まれるというジレンマを含むものだから、「普通に」いられるということが実は極めて稀でもあるということを知ることが必要になる。
 IIIでは、ドナは結婚する。だが、あとがきでドナは離婚している事実が書いてある。で、再婚する。ドナが云うところの「まずは生きなきゃね」というのが真実だろう。生きる、生活する、何かに興味を持ち為しえる、日々続ける、という平凡さこそが非常に難しいことを知る。あれこれと〈情報〉が多い世の中で、自分を形成しているのは何であるかという「自信」を確保しおくこと。けれども、自信を肥大化させないこと。だから、為しえた事実に立脚する自信という条件を付けて、安定させるのがよいだろう。少なくとも私の場合には。
update: 2005/07/27
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